・「全ての人間の尊厳がないがしろにされない世界を目指し、語り、行動していきたい」-菊地・東京大司教の復活節第五主日メッセージ

2026年5月 2日 (土)週刊大司教第254回:復活節第五主日A

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   復活節第五主日となりました。

   国際政治の世界が混乱する中で、教皇レオ14世の言葉が注目されています。これに関連して、先のアフリカ司牧訪問の際、教皇レオ十四世が4月16日、カメルーン、バメンダの共同体との平和の集いでのあいさつの冒頭で「私は平和を宣言するためにここにいます」と言われています。まさしく世界における倫理的な権威は政治家にではなく、宗教者にあることを、しっかりと自覚され、政治のしがらみの外に身を置いて平和を告げ知らせることは、宗教者の務めであることを明確にされています。

 5月は聖母の月です。一年の典礼で聖母を記念する日はいくつもありますが、一ヶ月が聖母のために捧げられているのは5月と10月です。10月は特にロザリオの月とされています。

 5月に聖母マリアに祈りを捧げることについては、歴代の教皇がその大切さを説いてきたところですが、例えばパウロ六世は第二バチカン公会議後の典礼改革のなかにあって、聖母への信心の重要性を説いた使徒的勧告「MARIALIS CULTUS(聖母マリアへの信心)」でこう述べておられます。

 「ロザリオは天使による喜ばしいあいさつとおとめの敬虔に満ちた承諾から始まって、福音からインスピレーションを受けて、信者がそれを唱えるべき態度を示唆しています。『アヴェ・マリアの祈り』を繰り返して唱え続けていくことによって、ロザリオは私たちに今一度、福音における基本的な神秘である御言葉の受肉を提示してくれます。マリアはこの神秘を『お告げ』という決定的な瞬間において黙想したのでした。このようにして、ロザリオは過去におけるよりも、おそらく今日において、司牧担当者や神学者たちが好んで定義するように、『福音の祈り』であると言えるのです」(44項)。

 パウロ六世はまた1965年に、特に「世界平和のために聖母に祈ってほしい」と呼びかけられた回勅「Mense Maio(5月の月)」では、こう述べておられます。

 「5月は、より頻繁で熱心な祈りのための力強い励ましであり、私たちの願いがよりたやすくマリアの憐み深い心に近づく道を見い出す時です。教会の必要が求めるときに、あるいは人類が何か重大な危機に脅かされているときにはいつでも、キリスト者に公の祈りを捧げよう勧めるためこのマリアに捧げられた月を選ぶのは、私の先任者たちに好まれた習慣でした」(3項)

 対立と分断が深刻化し混乱する現代社会にあって、政治のリーダーたちが命を守るための正しい決断をすることができるように、そして世界に神の平和が実現するように、この5月にロザリオの祈りを通じて、聖母マリアの取り次ぎを祈りましょう。

 東京教区のyoutubeのページには、これまでに制作した、ロザリオを一緒に唱えるための動画がいくつかあげられています。ご自宅でのお祈りのためなどにご活用いただければと思います。

 以下、2日午後6時配信、週刊大司教第254回、復活節第五主日のメッセージです。

【復活節第五主日A 2026年5月03日】

 「私は道であり、真理であり、命である。」

 国際社会はこのところ大きく揺らいでいます。国際政治の最前線にいるわけではない私たち大多数にとっては、報道される事実と、近年ではネット上であふれ出ている情報によってしか知り得ないことであり、必ずしもそれがすべての真実を語っているわけでもないのですから、本当のことは分かりません。そのため周囲で起こっている出来事や、リーダーたちの言説によって、どうしても判断は揺れ動くことになります。

 政治のリーダーたちによる国際政治の世界の駆け引きと、私たち信仰者が信仰に基づいて選択する言動は、そもそも全く異なる性質のものであり、それを混同してしまうと、互いに理解することができないまま、対立だけが深まります。

 先般の教皇レオ14世の信仰と福音に基づいた平和を求める発言は、国際社会の政治のリーダーにとっては、非現実的なメッセージにしか聞こえなかったことでしょう。教皇レオ14世は、アフリカ司牧訪問に向かう機上でインタビューに答え、「私たちは政治家ではない。外交政策を彼らと同じ視点で捉えているわけではない。しかし、私たちは平和を築く者として福音のメッセージを信じている」と述べておられます。

 まさしく私たちも、主イエスにこそ、すなわち福音にこそ、「道、真理、命」があるのだ、と信じています。ですからその福音のメッセージに基づいて、人間の尊厳を護り、命を守り、平和を築き上げる必要を語ることは信仰者の責務であることを忘れないようにしたいと思います。

 主イエスの言葉は、ご自分はすでに出来上がっている道を案内する者ではなく、ご自分こそが何もないところに新たに切り開かれていく「道」そのものであるのだ、と宣言する言葉であります。すなわち、御父へと至る道は、すでにあるのではなく、新しく切り開かれていく道であります。

 イエスは、その新しい道こそ真理であり、そこにこそ命がある、と言われます。主イエスは、私たちに、主ご自身を信頼し、その新しい道を勇気を持って歩むようにと、促しておられます。未知への旅立ちを求めています。

 真理と命へと至る道を、一人で勝手に見つけて歩むことはできません。イエスご自身しか、その新しい道を知らないからです。だからこそ私たちはイエスに付き従って、歩み続けなければなりません。イエスは、「私のいるところに、あなた方もいることになる」と、先ほどの福音に記されているように、主は信仰の共同体と共におられます。私たちはイエスという新しい道を、イエスと共に、そして兄弟姉妹の共同体と共に歩み続けます。

 私たちは、共に歩みともに祈ることで、主が「私を信じる者は、私が行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる」と言われ、ご自分で証しされたように、神からの賜物である命を愛し守り抜き、全ての人間の尊厳がないがしろにされることのない世界を目指して、語り、行動していく者でありたいと思います。

 (編集「カトリック・あい」)

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2026年5月2日