2024年6月22日 (土)週刊大司教第172回:年間第12主日B
年間第12主日となりました。本日の日曜日は、聖ペトロ使徒座への献金の日でもあります。教皇様が様々に行う支援活動や福音宣教活動ですが、特に近年、支援援助省を独立させてからは、直接的な支援のために長官のクライェウスキ枢機卿を、例えばウクライナへ直接派遣したりして積極的に展開されています。かつてこのクライェウスキ枢機卿の部署の管轄は、教皇様の祝福の文書をリクエストがあった世界各地に送付する業務が主でした。いまでもその業務は続けられており、様々な機会に、教皇様からの祝福の文書を目にすることがあります。
その部署に教皇様は、直接的な援助をさせることにして、枢機卿を責任者として、一つの役所として独立させました。そういった教皇様の活動を支えるのが、世界中で本日行われる、聖ペトロ使徒座への献金です。6月29日の聖ペトロ聖パウロの祭日の直前の日曜日に行われることになっていますので、今年は23日の日曜日です。教皇様の活動を支えるための献金をお願いいたします。
なお東京教区では、同祭日の近くの月次司祭集会の日に、司祭が集いミサを捧げ、その年に叙階金祝銀祝を迎える司祭への祝福を友に祈ることになっています。今年は、24日の月曜日にこのミサが捧げられ、新しく着任されたエスカランテ教皇大使も参加される予定になっています。なお金銀祝を迎える司祭については、別途、教区のホームページなどでお知らせします。
東京都では都知事選挙が始まりました。世界の各地に、この民主的で自由な選挙を手に入れるために闘わざるを得ない人たち、それがないために尊厳をないがしろにされている人たちが多くいることを考える時、日本では当たり前のように行われる選挙を、面白おかしく、あえて言えば愚弄するような行動があることは、残念と言うよりも、悲しいことです。とは言え、何らかの形で選挙の存在と意味を考える機会にもなっていると前向きに捉え、一人でも多くの人が忘れることなく権利を行使することを願っています。
以下、本日午後6時配信、週刊大司教第172回、年間第12主日のメッセージ原稿です。
【年間第12主日B 2024年6月23日】
人生を生きていく中で、私たちはしばしば困難に直面し、自分でなんとか解決できることもあれば、誰かの助けがなければ立ち上がることすらできないほどの危機に直面することもあります。
中でも、命の危機をもたらす暴力的な状況に置かれたとき、例えば戦争が続いているウクライナや、多くの人が命の危機に直面しているガザの現実などの中で、どれほどの命が、今この瞬間に、誰かの助けが必要だ、と感じていることでしょう。助けを必要としている人がこれだけ世界には存在しているのに、世界のリーダーたちはその危機的状況を解決するよりも、深刻化させるために知識と資金を費やしているようにしか見えません。
「先生、私たちが溺れてもかまわないのですか」
マルコ福音に記されているこの弟子たちの叫びは、今の時代を生きている私たちの叫びでもあります。命の危機に直面し、解決の糸口が見えないまま取り残されている私たちにとって、現実はまさしく、「荒波に翻弄される舟の中に取り残された弟子たち」の姿であります。
世の終わりまで共にいてくださる、と約束された主は、恐れにとりつかれ、孤独のうちに命の危機に直面している一人ひとりに対して、「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と語りかけます。それは決して、「信仰が弱いからだめなのだ」などと批判する言葉ではありません。それはまさしく荒れ狂う湖に翻弄される舟の中に、弟子たちだけがいたのではなく、主御自身も共におられた事実を、改めて弟子たちに思い起こさせる言葉であります。「私はここに共にいる」と、慰めを与える慈しみの言葉であります。
そして今日、命の危機に直面し、恐れに捕らわれる私たちに対して、主は改めて、「私はここに共ににいる」と、慰めの言葉を与えてくださいます。主は共におられます。
2025年の聖年を告示する大勅書「希望は私たちを欺くことがありません(ローマの信徒への手紙5章5節)」を発表された教皇様は、私たちがこの世界にあって「希望の巡礼者」として生きることを呼びかけます。特に教皇様は、この聖年を主が与える「時のしるし」を読み取る機会としながら、私たちが「悪と暴力に打ち負かされてしまった」と思い込み、恐れに捕らわれる誘惑に勝つために、「今日の世界に存在する善」に目を向けることを忘れないように勧められます。この世界は、絶望だけが満ちあふれているのではなく、希望を生み出す善は存在していることを、教皇様は強調されます。
その上で、「時のしるし」を良く読み取り、それを「希望のしるし」に変容するように、と私たちを招いておられます。
私たちの一番の希望の源は、「命の与え主である主御自身が、いつまでも私たちと共にいてくださる」という確信です。「私たちは命の主から見捨てられることがない」という確信です。主は絶望や苦しみの中にある私たちと、いつも共におられます。
(編集「カトリック・あい」)