・「ミャンマーで大地震発生、被災した方々のために共に祈ろう」菊地東京大司教、四旬節第四主日に

2025年3月29日 (土)ミャンマーでの地震発生にあたって、ともに祈りましょう

             ミャンマー中部マンダレー近郊を震源地とする大地震が発生したことを受けて、私から東京教区の皆様に共に祈りを捧げるように呼びかけております。ミャンマーでの地震発生にあたって、共に祈りましょう

 2月28日午後にミャンマー中部を震源とするマグニチュード7.7の大地震が発生しました。現時点での報道では、ミャンマーの第二の都市であるマンダレーや首都のネピドーに大きな被害があり、またタイの首都バンコクでも、建設中の高層ビルが倒壊するなど、被害が多数出ています。

 現地からの報道はまだ断片的ですが、NHKによれば29日午後3時頃の情報として、「ミャンマーの国営テレビは29日、SNSに投稿し、今回のミャンマー中部で発生した大地震で全国でこれまでに1002人が死亡し、2376人がけがをした」と報道されており、これからも被害は拡大するであろうことが推定されます。

 ミャンマーの教会は、東京教区にとって姉妹教会であり、長年にわたりケルン教区と共に様々な支援を行ってきました。その中で、数年前からはマンダレー教区の神学生養成の支援に取り組み、哲学課程の神学校建物の建設も支援してきました。わたし自身も、東京教区の司祭代表団と一緒に、コロナ禍直前の2020年2月にマンダレー教区ピンウーリンの同神学校を訪問し、さらなる協力関係の構築でマンダレー教区のマルコ大司教様と一致したところでした。

 ミャンマーは2021年2月1日に発生したクーデター後、軍事政権下で不安定な状況が続いており、平和構築と民族融和を訴えるカトリック教会への武力攻撃もやみません。いくつかの教区ではカテドラルを含む教会が襲撃され、教区司教が住居を失った事例も報告されています。

 今回の地震に際して、マンダレー教区からは、教会も含めて大きな被害を受けたとの情報が届いており、教会による救援活動の開始も伝わってきております。情報は随時、東京教区ホームページに掲載いたします。

 募金をとの申し出が相次いでおりますが、それに関しては、詳細が判明してからできるだけ早く、どのような形にするのかをカリタスジャパンの判断も待ちながら、週明けには、教区としての対応をお知らせすることに致します。

 どうか今回の地震の被害に遭われた皆さんのために、また特に姉妹教会であるミャンマーの皆さん、そしてタイの皆さんのために、ミサの中でお祈りをお願いいたします。また、東京教区のミャンマー共同体の皆さんと心を合わせて、日々の祈りの中で、地震の被災者のために、また平和の実現のために、さらなるお祈りをお願いいたします

 以下、週間大司教第203回目のメッセージ原稿です。

( 四旬節第四主日C  2025年3月30日)

 ルカ福音は、よく知られている「放蕩息子」のたとえ話を記しています。この物語には、兄弟とその父親という三名が、主な登場人物として描かれています。

 当時の社会状況とその背景にある宗教的な掟に基づいて、罪人とされている人々に寄り添おうとされたイエスに対して、その掟を厳しく追及する人々は不平を漏らします。

 「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」

 この不平の言葉は、今を生きる私たちの間でも聞かれる言葉であります。こう語る人の視点は、実は「罪人」にあるのではなく、自分自身に向けられています。すなわち、「本来大切にされ受け入れられるべきなのは、正しい私であるはずだ」という心持ちであります。正義は自分にあるはずなのですから、それを否定し、正義を持たない人たちを優遇するイエスを、理解することができません。

 東京ドームのミサの説教で、教皇フランシスコは、「傷を癒し、和解と赦しの道を常に差し出す準備のある、野戦病院となること(東京ドームミサ説教)」を教会共同体に求められました。神の慈しみの深さに包まれ、その行動の原理に倣うことを私たちに説いておられます。

 弟を迎え入れた父親は、「いなくなっていたのに見つかったからだ」という言葉の前に、「死んでいたのに生き返り」と付け加えています。父親の価値基準は正しさにあるのではなく、家族という共同体に繋がって生かされているのかどうかにあります。ですから弟を迎え入れた父親に対して不平を言う兄に、「お前はいつも私と一緒にいる。私のものは全部お前のものだ」と告げるのです。

 共同体の絆から離れていることは、命を生きていたとしても「死んでいる」ことであって、その絆に立ち返ったからこそ弟は「死んでいたのに生き返り」と父親が語っているのです。共同体の絆、すなわち連帯の絆に結ばれて、人は命を十全に生きることができるのです。父親の優しさとは、罪に対して目をつむることではなく、共同体の連帯の絆に立ち返らせようとする愛の心であって、神の正義はそこにあります。

 今年の四旬節の教皇メッセージ、「希望をもって共に歩んでいきましょう」において、回心について三つの側面から語る教皇は、二つ目の側面である「共に歩む」ことについてこう記しておられます。

 「共に歩む、シノドス的であること、これが教会の使命です。キリスト者は決して孤高の旅人ではなく、共に旅するよう呼ばれています。聖霊は、自分自身から出て神と兄弟姉妹に向かうよう、決して自分自身を閉じないよう、突き動かしておられます」

 そのうえで教皇は、共に歩むことで共同体の絆を回復させることの大切さを説かれ、こう記されます。

 「共に歩むということは、神の子として共に有する尊厳を基盤とした一致の作り手となるということを意味します。それは、人を踏みつけたり押しのけたりせず、ねたんだりうわべの振る舞いをしたりせず、誰も置き去りにしたり疎外感を覚えさせたりせずに、肩を並べて歩む、ということです」

 自らの正義を振りかざし、他者を糾弾し排除しようとする誘惑は、現代社会に満ちあふれています。私たちは、放蕩息子を迎え入れた父親のように、共同体の絆に命を回復させ、共に歩もうとする姿勢が求められています。

(編集「カトリック・あい」)

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2025年3月30日