♰「十字架なしに真の愛はない、だが一人で負うことはない、イエスがいてくださる」日曜正午の祈りで

(2020.6.28 VaticanNews Devin Watkins)

 教皇フランシスコは28日日曜正午の祈りの前の説教で、信徒たちに、広い心と感謝の気持ちを持って、自分の十字架を担い、イエスの足跡をたどるように、強く促された。

 この日のミサで朗読されたマタイ福音書の箇所(10章37-42節)で、イエスはご自分の弟子であることに求められるものを、はっきりと示されている。

*イエスへの愛は家族への愛につながる

 教皇は、「ご自分に付き従る人々に示された第一になすべきことは、家族への愛情よりも、イエスへの愛を上に置くことでした」とされたうえで、ただし、「イエスが望まれたのは、両親と子どもたちへの愛を過小評価することではありません… それを第一にしたら、家族の結束は真の善から外れてしまう可能性があることを、イエスはご存じだったからです」と説かれた。

 そして、家族への愛情が福音に反する選択に繋がってしまうというような経験を、私たちは皆している、とされ、「両親と子どもたちに向けられた愛が、主への愛によって力づけられ、純粋なものとされた時、完全に実りあるものとなり、家族の善のための果実を生み、家族をこえるのです」と語られた。

 また、イエスへの心からの愛は、私たちの両親と子どもたちを心から愛することを求めるが、家族を第一にすれば、「私たちはいつも、誤った道に運ばれてしまいます」と注意された。

 

*十字架を担う

 続いて教皇は、私たちが自分の十字架を担い、彼に従うように、とのイエスの勧めについて言及され、これこそがイエスご自身が歩まれた道であり、”近道”はない、と指摘。「十字架なしに、自分個人の代償を払うことなしに、真の愛はありません… しかし私たちが忘れてならないのは、私たちは決して一人で十字架を担うことはない、私たちが試練に遭う時、イエスがいつも、私たちに力と勇気を与え、支えるために、そこにいてくださる、ということを覚えておく必要があります」、だから、「恐ろしい、自己中心的な行動で自分の人生を保つために、いらだつ必要もありません」と語られた。

 

*イエスが語られた”逆説”の福音

 教皇はまた、この福音書の箇所でイエスが、”逆説”の福音を示されていることを指摘された。それは「自分の命を得る者は、それを失い、私のために命を失う者は、それを得る」と語られている箇所であり、このイエスの言葉が真実であることは、歴史が多くの実例を私たちに示している、とされた。

 そして「現在も、他の人々を助けようと十字架を担う人々が多くいます… 現在の新型コロナウイルスの大感染の最中に助けを必要としている人々を助けるために、自分を犠牲にしています。イエスと共にいれば、私たちはどんなこともできるのです」とし、「あふれる命と喜びは、(注:助けを必要としている人々に)心を開き、歓迎し、親切にすることで、福音と他者のために、自らを捧げることによって得られるのです」と強調された。

*感謝と広い心をもって

 他者を助けるために自分の命を提供すること、例えば、一杯の冷たい水を飲ましてあげることによって、私たちは神の心の広さと感謝を経験することができる。

 教皇はこのことと関連して、ある司祭から聞いた、心の広い子どもの話をなさった-ある日、その子どもが司祭の所に来て、「神父さま。これは私がためたお金です。ほんの少しです。新型コロナウイルスの大感染で助けを必要としている人たちのために使ってください」と頼んだという。「小さいことですが、大きなことです」と教皇は言われた。

 そして、「私たちの必要に応じてくれる人たちに感謝”するようにさせるのは、”感染性”の感謝の気持ち」であり、感謝の気持ちは、礼儀正しさのしるしであり、キリスト教徒の(注:もつべき)重要な特質、と説かれた。「それは簡素だが神の王国、無償で、喜びに満ちた愛の王国のしるしなのです」と説かれた。

 

*聖母に倣って

 説教の最後に、教皇は、聖母マリアに、私たちが自分たちの十字架を担い、キリストの足跡をたどれるよう、助けを祈られた。judge

 「御言葉が私たちの行いと私たちの選んだことを裁かれるのを受け入れ、私たちが、前向きの心で、いつも神の御前にいるように、助けてください」。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

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2020年6月28日