☩「都市にも、家庭にもある”周辺部”へ真の愛を」「世界宣教の日」(10月24日)教皇メッセージ

2021年「世界宣教の日」教皇メッセージ 「私たちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」(使徒言行録4章20節)

親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 神の愛の力を経験したとき、個人や共同体の生活の中で御父の存在に気づかされたとき、私たちは、見たことや聞いたことを告げ、分かち合わずにはいられません。イエスの弟子たちとの関わり、すなわち、受肉の神秘、福音、復活によって明かされたイエスの人間性からは、神が私たち人間をどれほど愛しておられ、私たちの喜びや苦しみ、望みや不安をご自分のものとされているかが示されます(第二バチカン公会議『現代世界憲章』22参照)。

 キリストにおける何もかもが、私たちの生きる世界とそのあがないの必要性はキリストにとって他人事ではないことを思い起こさせ、また、この宣教活動に積極的に加わるよう呼びかけています。「町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい」(マタイ福音書22章9節)。だれもよそ者ではなく、このあわれみの愛を、自分とは無関係な縁遠いものと思う人はいないのです。

使徒たちの体験

 福音宣教の道のりは、どこにいようとも一人ひとりを呼び出し、友としての対話をしたいと望んでおられる主を(ヨハネ福音書15章12~17節参照)熱心に探し求めることから始まります。それを教えてくれるのは使徒たちです。彼らは、そのかたと出会った日時すら覚えています。「午後四時ごろのことである」(同1章39節)。

 使徒たちは主との友情の中で、主が病人を癒やし、罪人と食事をし、飢えた人に食べ物を与え、排除された人のもとへ行き、汚れているとされた人に触れ、困窮者とご自分を同じくされる姿を見ました。真福八端へと招き、新しい権威に満ちたしかたで教え、消えることのないしるしを残す主を見ることによって、驚きと抑えきれぬ無償のあふれ出る喜びを呼び覚ますことが可能になったのです。

 預言者エレミヤが語っているように、この体験が、私たちの心の中で生きておられる主の燃え上がる炎であり、私たちを宣教へと駆り立てるのです。たとえ、それがわたしたちを犠牲や無理解にさらすことがあってもです(エレミア書20章7~9節参照)。愛は常に動きのあるものであり、もっとも美しく希望に満ちたメッセージを分かち合うべく、私たちを動かすのです。――「私たちはメシアに出会った」(ヨハネ福音書1章41節)。

 イエスによって私たちは、物事は多様でありうることを目にし、聴き、触れてきました。この方は、しばしば忘れられてしまう私たち人間の本質、すなわち「私たちは、愛においてのみ、たどり着くことのできる充満のために造られている」(「回勅『Fratelli tutti(兄弟の皆さん』68項)ことを思い起こさせることによって、今日すでに、先の時代を開いたのです。

 共同体を形作り開始するための推進力を内に秘めた信仰を奮い立たせる新しい時代、それは男女が自身と他者の脆弱さを引き受けることを互いに学び合うことに端を発し、兄弟愛と社会的友愛の中で促進されます(同67項参照)。教会共同体は、主がまず私たちを愛してくださったこと(ヨハネの手紙1・4章19節参照)を感謝をもって思い起こすたびに、そのすばらしさを表します。

 「主の深い愛には衝撃を受けますが、この驚きはその性質上、私たちがどうこうできるものではなく、無理に抱かせることもできません。……無償の奇跡、無償の自己贈与という奇跡は、そうした形でのみ、花開くのです。宣教への熱意も、考えたり計算したりして得られるものでは決してありません。『宣教状態』に身を置くということは、感謝の気持ちの表れなのです」(「教皇庁宣教事業へのメッセージ(2020年5月21日)」)。

 しかしながら、楽な時代はありませんでした。初代教会のキリスト者は、敵意と困難な状況の中で彼らの信仰生活を始めました。隅に追いやられた時代と投獄され内部と外部の対立が絡み合い、これまで自分たちが目にし、聴いたことですらも否定し矛盾しているかのように映る状況でした。しかしそれは、彼らを退かせたり、引きこもらせたりする困難や障害とはならずに、かえって彼らを、障害、反対、困難をことごとく宣教の好機に変えるよう駆り立てたのです。制約や妨害もまた、主の霊によってすべてのものとすべての人に油を注ぐ、恵みの機会となりました。何一つ、だれ一人、この解放の告知に無縁なはずはないのです。

 私たちはこうしたすべてについての生きた証しを収めた使徒言行録を持っており、この書物は宣教する弟子たちが常に大切にしてきたものです。福音の香りがどのようにして広がり、主の霊のみが与えうる喜びを呼び覚ましたかを記した書です。使徒言行録はわたしたちに、キリストを胸に抱くことによって試練を生きることを教えています。それによって、「神はあらゆる状況の中で、失敗と思われる状況でさえもお働きになるという確信」や、「愛ゆえに自らをささげて神にゆだねる人は必ず実を結ぶ(ヨハネ福音書15章5節参照)」(使徒的勧告『福音の喜び』279項)という確信が成熟するのです。

 私たちも同じです。今のこの時代も、たやすくはありません。パンデミックという状況は、すでに多くの人が苦しんでいる、痛み、孤独、貧困、不正義を明らかにして増大させ、また私たちの偽りの安心感、私たちを密かに引き裂く細分化や分極化を露わにしました。もっとも弱くて傷つきやすい人が、なおいっそう脆弱に、壊れやすくなったのです。私たちは落胆し、幻滅し、疲労し、希望を奪うあきらめの気持ちに、視野が遮られてしまったのです。

 けれども、私たちは、「自分自身を宣べ伝えるのではなく、主なるイエス・キリストを宣べ伝えています。私たち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです」(コリントの信徒への手紙2・4章5節)。ですから私たちは、自分の心にこだまし、語りかける命の言葉が、共同体や家庭で鳴り響くのを感じます。「あのかたは、ここにはおられない。復活なさったのだ」(ルカ福音書24章6節)と。

 希望の言葉は、その言葉に触れるがままでいる人に、あらゆる決定論を打ち破らせ、自由と立ち上がるために必要な勇気を贈ります。そして創造性をもった共感を生きるすべての方法や、誰一人道端に捨て置きはしない神が私たちと近しくあられるという―秘跡性―を探し求めます。

 このパンデミックの時代、正しいソーシャルディスタンスという名目で、無関心と無感動をマスクで覆って正当化する誘惑に直面する中で、求められる人との距離を、出会い、世話、活動の場にできる、あわれみの宣教が急務です。「見たことや聞いたこと」(使徒言行録4章20節)、つまり、わたしたちが受けてきたあわれみが、「時間、努力、財産を割くべき、帰属意識と連帯の共同体」(回勅『Fratelli tutti』36項)を築くべく、皆で抱く情熱を取り戻すための基準点となります。

 主のみ言葉こそが、毎日、私たちをあがない、「どの道変わりはしない、何をしても無駄」というもっとも卑しむべき懐疑主義に閉じこもる言い訳から救い出してくれるのです。「自分には大して利益もないだろうに、どうして己の安全、快適さ、快楽を手放さなくてはならないのか」という問いに対し、いつも答えは同じです。「イエス・キリストは罪と死に打ち勝ち、力に満ちておられるのです。イエス・キリストはまさしく生きておられ」(使徒的書簡『福音の喜び』275)、私たちにも生きてほしい、友愛をもって、この希望を抱き、分かち合えるようでいてほしいと願っておられるのです。現在の状況で早急に求められているのは、希望の宣教者です。自分一人で救われる人は誰もいないことを預言的に気づかせてくれる、主に油注がれた者です。

 使徒や初代教会のキリスト者のように、私たちも声を限りに語ります。「私たちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」(使徒言行録4章20節)。私たちが受けたものすべて、主が私たちに与えてくださったものすべては、私たちがそれを持ち出し、他の人に無償で与えるために主から与えられているのです。

 イエスの救いを見て、聴いて、体験した使徒たちのように(ヨハネの手紙1・1章1~4節参照)、今日の私たちもまた、日々の歩みの中で、苦しみと栄光を受けたキリストの肉に触れることができ、すべての人とともに、希望の未来を共有するようにとの励ましを得られるのです。これは、主はいつもわたしたちに寄り添ってくださっているとの認識から生まれる、疑いのないしるしです。私たちキリスト者は、主を自分のもとに留め置くことを許されていません。福音化という教会の宣教は、世界の変革と被造物の保護における、自らの全面的かつ公的な意義を表しています。

私たち一人ひとりへの招き

 今年の世界宣教の日のテーマ、「私たちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです」(使徒言行録4章20節)は、「任を引き受け」、心に抱く思いを伝えるようにという、私たち一人ひとりへの招きです。この宣教が常に教会のアイデンティティであり、これまでもずっとそうでした。「教会はまさに福音をのべ伝えるために存在しています」(聖パウロ六世使徒的勧告『福音宣教』14項)。

 孤立状態になったり、少数グループに引きこもってしまうと、私たちの信仰生活は弱まり、預言する力や、驚嘆し感謝する能力を失います。信仰生活には、その独自のダイナミズムゆえに、すべての人に到達し、すべての人を抱きしめることのできる、開放性の高まりが必要です。初代教会の信者たちは、閉鎖的なエリート集団を形成する誘惑に屈することはありませんでした。

 主に見聴きしたこと、すなわち「神の国は近づいた」ということを、人々の中に分け入って証しするという、主から与えられた新しい生き方に魅了されたのです。彼らは、自身の努力と献身による実りを他者が食することになると知りつつ種を蒔く人のように、惜しまず、感謝しつつ、誇り高く、そうしたのです。だからこそ、私はこう考えたいのです。「どれだけ弱い人でも、障害者も、傷を負っている人も、それぞれのかたちで宣教者となるはずです。そこにたくさんのもろさが共存していたとしても、よいものを伝えるということをいつも可能にしていなければなりません」(使徒的勧告『キリストは生きている』239項)。

 毎年、10月の最後から2番目の日曜日に祝われる世界宣教の日に私たちは、福音の寛大で喜びに満ちた使徒になるという洗礼がもたらす義務を一新すること、その人生の証しをもって励ましてくれるすべての人を、感謝のうちに思い起こします。なかでも、多くのいのちが恵みに渇いている村や都市の隅々に、遅滞なく、恐れを感じることなく福音が届けられるようにと、故郷を出て家族から離れて出発した人々を思い起こします。

 宣教者としての彼らの証しを見つめることで、勇気ある者となるよう、そして、「収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に」(ルカ福音書10章2節)粘り強く願うよう励まされます。宣教への召命は過去のものでもなければ、別の時代の感傷的な思い出でもないと自覚しているからです。今日イエスは、世界の”周縁部”へと出向かせ、慈しみの使者、憐れみの道具とする、真の愛の物語として自らの召命を生きようとする心を必要としています。

 そしてこれこそが、方法は異なっても、主が私たち全員に向けて行っている呼びかけです。”周縁部”は、私たちの近くに、都市のただ中に、家庭の中にもあることを忘れてはなりません。愛が普遍的に開かれていくことには、地理的ではなく実存的な面もあります。いつであっても、しかし、とりわけこのパンデミックの時代には、身近にいてもおよそ「自分が関心ある世界」の人だという気がしない人のもとに行き、自分の仲間の輪を広げようとする、日常的に働く力を高めることが必要です(回勅『Fratelli tutti』97項参照)。

 宣教を生きるということは、キリスト・イエスと同じ感覚をもつ覚悟をすることであり、主によって、そばにいる人は誰であれ自分の兄弟姉妹である、と信じることです。主の憐みの愛が私たちの心をも目覚めさせ、私たち皆を宣教する弟子にしてくださいますように。

 最初の宣教する弟子、マリアが、洗礼を受けたすべての人の内にある、地の塩、世の光(マタイ5・13―14参照)となりたい、という望みを、強めてくださいますように。

ローマ サン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ大聖堂にて 2021年1月6日 主の公現の祭日 フランシスコ

(カトリック中央協議会訳)(「カトリック・あい」編集=聖書の引用は「聖書協会・共同訳」に改めてあります)

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2021年10月2日