♰「神との約束のために危険を顧みない勇気を」ー 「世界召命祈願の日」メッセージ(2019.5.12)

 教皇フランシスコは5月12日の第56回「世界召命祈願の日」に当たり、以下の教皇メッセージを出された。

親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 昨年10月に行われた若者のための世界代表司教会議(シノドス)での活気あふれる実り豊かな体験に続いて、わたしたちは先日、第34回ワールドユースデーをパナマで開催しました。この二つの大きな行事を通して教会は、聖霊の声を聞き、若者の生き方と疑問、彼らに重くのしかかる倦怠感、彼らが抱いている希望に耳を傾けました。

 わたしはこの「世界召命祈願の日」にあたり、主の呼びかけがどのようにわたしたちを約束の担い手にするのか、そして、主とともに主のために危険を顧みない勇気をいかに求めているかを、パナマで若者と分かち合ったことを振り返ることによって考えたいと思います。ガリラヤ湖で最初の弟子たちが召し出された場面を描く福音箇所(マルコ1・16-20)を、皆さんと一緒に考えながら、この二つの要素――約束と危険――に少し焦点を当ててみましょう。

 二組の兄弟、シモンとアンデレ、ヤコブとヨハネは、漁師として日々の仕事に従事していました。厳しい労働の中で、彼らは自然の法則を学びましたが、逆風が吹いたり、舟が波にもまれたりしたときには、それに挑まなければなりませんでした。大漁によって重労働が報われる日もあれば、一晩かけても網を満たせず、疲労と失望のうちに岸に戻る日もありました。

 これは、ごく普通の人生の姿です。その中でわたしたちは皆、心にある願いをかなえるために努力し、豊かな実りが見込める活動に従事し、幸せへの渇きをいやすことのできる正しい航路を探しながら、可能性に満ちた「海」を進みます。大漁のときもありますが、そうでないときには、波に揺られる舟のかじとりに勇気をもって身構えたり、網に何もかからないことに対するいらだちを抑えたりしなければなりません。

 あらゆる召し出しの記述と同様、この出来事にも出会いがあります。イエスは歩いておられるときに漁師をご覧になり、彼らに近寄って……。このことは、結婚生活をともに歩もうと決めた相手に対しても、あるいは奉献生活に魅力を感じたときにも起こることです。わたしたちは出会いに驚き、その瞬間、自分の人生が喜びに満たされるという約束を予感したのです。このように、その日イエスはガリラヤ湖畔を歩いておられ、漁師たちに近寄り、「日常を繰り返すばかりの麻痺状態」(第22回「奉献生活の日」説教、2018年2月2日)を打ち破ってくださいました。そしてすぐさま、彼らに約束してくださいました。「人間をとる漁師にしよう」(マルコ1・17)。

 主の召し出しは、わたしたちの自由に対する神の干渉ではありません。それは「檻」でも、背負わされる重荷でもありません。それどころか、神がわたしたちに会いに来られ、わたしたちの参加を望んでおられる偉大な計画へと招いてくださる、愛に満ちた導きです。神はより広大な海と有り余るほどの漁獲という展望を示してくださるのです。

 神はまさに、わたしたちの人生が疑いようのないことだけにとらわれたり、日々の習慣の中で惰性に陥ったり、人生に意味を与えうる選択を前にして現状に押し流されたりしないよう求めておられます。情熱を傾けるに値するものはしょせん、何もないと考え、人生の新たな航路を探すことへの不安を打ち消しながら日々を生きることを、主は望んでおられません。もし主が「奇跡的な大漁」を幾度か体験させてくださるとしたら、それは、わたしたち一人ひとりは――さまざまなかたちで――なにか偉大なことへと招かれているのであって、無意味で心を麻痺させる網に人生をからめ捕られてはならないのだということに気づいてほしいと願っておられるからです。要するに召命とは、網をもって岸辺にとどまるのではなく、イエスがわたしたちのため、わたしたちの幸せのため、わたしたちのそばにいる人の善のために考えてくださった道を、イエスに従って歩むようにとの招きなのです。

 もちろん、この約束を抱き続けるには、危険を顧みずに選択する勇気が必要です。最初の弟子たちは、もっと大きな夢に加わるよう主に招かれていると感じ、「すぐに網を捨てて従」(マルコ1・18)いました。主の呼びかけにこたえるためには、全身全霊でかかわり、危険を顧みずに新たな課題に立ち向かう必要があることを、この箇所は伝えています。わたしたちは、自分の小さな舟に自らを縛りつけているもの、最終的な決断への妨害となるものをすべて捨てなければなりません。求められているのは、神がわたしたちの人生に描いておられる計画を見いだすよう強く促す大胆さです。つまり、召命という広大な海の前では、安全な舟の上で自分の網を直し続けるのではなく、主の約束を信頼することこそが求められるのです。

 わたしは何よりもまず、キリスト者として生きることへの招きについて考えます。それは、洗礼によって皆が受ける招きであり、わたしたちのいのちは偶然の産物ではなく、教会という大家族の中に集う、主に愛されている子というたまものであることを思い起こさせてくれます。キリスト者はまさしく教会共同体の中に生まれ、とりわけ典礼によってはぐくまれるのです。典礼は、神のことばに耳を傾け、秘跡の恵みにあずかるようわたしたちを導きます。この共同体において、わたしたちは幼いころから祈りと兄弟姉妹間の分かち合いのすべを学びます。わたしたちを新しいいのちに生まれさせ、キリストのもとへと導いてくれるのですから、教会はまさにわたしたちの母です。ですから、たとえその顔に弱さと罪というしわを見たとしても、母なる教会を愛さなければなりません。そして教会がより美しく輝き、この世における神の愛のあかしとなるよう力を尽くさなければならないのです。

 またキリスト者の生き方は、社会におけるみ国の発展に貢献しつつ、自分たちの航海を正しい方向に向ける選択として表れます。わたしは、キリストのもとに結婚して家庭を築くという選択について考えると同時に、労働や専門職の領域、慈善活動や連帯の分野における取り組み、社会的、政治的責任などと結びついた、他の召命についても考えます。これらの召命は、わたしたちを善と愛と正義の約束の担い手にします。それは自分のためだけでなく、勇気あるキリスト者と神の国の真のあかし人を必要としている、わたしたちの地域の社会と文化に尽くすものでもあるのです。

 主との出会いの中で、奉献生活や司祭職への招きに心惹かれる人もいるでしょう。完全に自分自身をささげ、福音と兄弟姉妹に忠実に奉仕するよう努めることを通して、教会という舟の中で「人間をとる漁師」になるようにとの招きを感じることは、感激と同時に不安を覚えさせることです。この選択には、主のわざの協力者となるために、思い切ってすべてを捨てて主に従い、自分自身を完全に主にささげることが求められます。心の中にさまざまな抵抗が生じ、その選択を妨げるでしょう。また、きわめて世俗的で、神と福音の入る余地がないように思われる状況では、落胆し、「希望の疲弊」に陥るでしょう(「司祭、奉献生活者、信徒活動団体とのミサでの説教」パナマ、2019年1月26日)。

 それでも、主のために危険を顧みないで生きることほど、大きな喜びはありません。とくに若者の皆さんにお願いします。主の呼びかけに対して耳をふさがないでください。主がそのように呼びかけたら、おじけづかずに、神を信頼してください。主から示された高い頂きの前で、身動きできないほどの恐怖心に支配されないでください。主は網や舟を捨ててご自分に従う人に、心を満たし、人生を活気づける、新しいいのちの喜びを約束してくださいます。どうかこのことを忘れないでください。

 大切な友である皆さん、自分の召命を識別し、人生を正しく方向づけることは、必ずしも容易ではありません。だからこそ教会全体の各部分――司祭、修道者、司牧養成者、教育者――には、とりわけ若者に傾聴と識別の機会を提供するための、新たな取り組みが求められるのです。とくに祈り、みことばの黙想、聖体礼拝、霊的同伴を通して神の計画を知る助けとなる、青年司牧と召命推進の活動は不可欠です。

 ワールドユースデー・パナマ大会で何度もしてきたように、マリアを見つめましょう。この少女の生涯においても、召命には約束と危険が伴いました。その使命は容易なものではありませんでしたが、マリアは恐れに屈しませんでした。マリアの「はい」は、「危険を顧みずに自らかかわる人、自分が約束の担い手であるという確信以外には何も保障がなくてもすべてをかけようとする人の『はい』です。皆さん一人ひとりにお聞きします。自分が約束の担い手だと感じていますか。どんな約束を心に抱き、それにこたえようとしていますか。マリアが困難な使命を担っていたことは疑いようもありませんが、その難しさのゆえに『いいえ』と答えることはありませんでした。もちろん戸惑ったでしょうが、それは、前もってすべてが明らかにされ、保証されていないと身動きがとれなくなる臆病さから生じる戸惑いと同じものではなかったでしょう」(「若者との前晩の祈り」パナマ、2019年1月26日)。

 「世界召命祈願の日」にあたり、ともに祈りのうちに主に願い求めましょう。わたしたちの人生に対する主の愛の計画を見いだすことができますように。そして、わたしたちのために主がつねに考えてくださっている道を、危険を顧みずに歩む勇気が与えられますように。

バチカンより 2019年1月31日  聖ヨハネ・ボスコ司祭の記念日 フランシスコ

(カトリック中央協議会訳)

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2019年5月13日