♰「聖体は私たちの”ひ弱な記憶”を癒してくださる 」-キリストの聖体の祝日ミサで

 

(2020.6.14 Vatican News)

 教皇フランシスコは14日、キリストの聖体の祝日のミサを聖ペトロ大聖堂の「司教座の祭壇」でささげられた。

 新型コロナウイルス感染防止対策で一般信徒を含め約50人に出席が限定されたミサ中の説教で、教皇はまず、神の多くの贈り物を記憶することの重要さを思い起こされた。

 そして、「記憶しなければ、私たちは、養ってくれる土壌から自分を引き抜き、風の中の木の葉のように自分を吹き飛ばされるに任すことになります」とされたうえで、「記憶するという行為は、私たちが最強の絆を作り直すのを助け、もっと大きな物語の一部であることを私たちに感じさせます… 記憶は個人的なことではなく、神や他の人々に私たちを結び付ける道なのです」と指摘された。

 

*「ひ弱な記憶」の私たちに神はパンをくださった

 また、聖書は、主と私たちの関係がどのようにして、口頭で何世代にもわたって伝えられてきたのか、を語っているが、「そうした記憶伝達の鎖が壊されたら、何が起きるでしょうか」と、教皇は会衆に問いかけ、神は、私たちの記憶がどれほど不足しているかをご存じなので、「私たちに、言葉や印をはるかに超える”記念の品”をくださいました」とし、次のように語られた。

 「神は食べ物をくださったのです。私たちは実際に”味わったもの”をなかなか忘れないからです。それで、私たちにパンをくださいました。そのパンの中に、愛のすべての味わいと共に、実存され、生きておられ、そしてそれは真実です」。

 そして、聖体は単なる「記憶」ではなく「事実」である、とされ、「ミサにおいて、イエスの死と復活が私たちの前にしっかりと用意されるのです」と説かれた。

*聖体は私たちの「遺棄された記憶」を癒してくださる

 次に教皇は、私たちの弱った記憶を聖体が癒してくださる働きには三つの側面がある、とされた。

 そのうち最も重要なのは、主の体と血の祭儀が、私たちの「遺棄された記憶」を癒してくれることであり、多くの人は、愛をくれるはずの人から心情的に捨てられたことで特徴づけられるような「愛情の欠如と辛い失望」で特徴づけられる記憶を持っているが、神は私たちの記憶を、そうした痛みに勝る大きな愛で満たし、私たちを癒してくだるとし、次のように続けられた。

 「聖体は私たちに、父の真心の愛をもたらし、『自分は親に捨てられた子だ』という私たちの思いを癒し、聖霊の慰めの愛で私たちの心を満たしてくださいます」。

*「負の記憶」を癒してくださる

 聖体の癒しの側面の二つ目は、自分の問題や失敗だけに焦点を当てている私たちの「負の記憶」を癒してくださること。イエスは、私たちがご自分の目には貴重で、ご自分とテーブルを囲む価値のある存在だ、と私たちにお告げになる為に来られた、と教皇は語り、「それはイエスが心の広い方であるからだけでなく、真に私たちを愛しておられるからです。イエスは私たちの素晴らしさ、善さをご存じで、愛しておられるのです」と強調された。 また教皇は、聖体は私たちに、悲しみに対する免疫をくださる、それは「私たちの負の記憶に対する抗体を持っている」から、とされ、このようにして私たちは、神の使い、「喜びの使い」に変えられるのだ、と説かれた。

*「閉じられた記憶」を癒してくださる

 三つ目の側面は、聖体が私たちの「閉じられた記憶」を癒してくださることだ。

 私たちの記憶につけられた傷は、他人を恐れ、疑うようにさせ、結果として、どのような状況も制御できるという誤った希望を抱き、他の人々と距離を置いてしまうことがある、と考えられるが、教皇は「それは、幻想です。愛が、その根源にある恐怖を癒し、私たちを閉じ込めている自己中心主義から解放してくれるからです」と説かれた。

 そして、イエスは、武器なしの弱々しい主人の姿で私たちの所に来られ、私たちの自己中心の殻を砕き、私たちの内なる壁と心の麻痺を取り除かれる、飾りのないパンとして、ご自分をお与えになることで、イエスは、役に立たないことで自分の人生を無駄にしないようにと、私たちに勧めておられる、と語り、「聖体は物質的なものに対する私たちの飢えを満たし、私たちの奉仕へ願望に火を付けます」とされた。

*私たちは皆、連帯の鎖で結ばれている

 最後に、教皇は、聖体が、私たち皆を連帯の鎖で結ばれていることを、改めて思い起こされて、説教を締めくくられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

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2020年6月14日