♰「私たちは謙虚な奉仕の扉を通って神の国に入る」ー王たるキリストの主日正午の祈りで

Pope Francis at AngelusPope Francis at Angelus  (Vatican Media)

(2020.11.22 Vatican News staff writer

 教皇フランシスコは22日、王たるキリストの主日の正午の祈りの説教で、この日のミサで読まれたマタイ福音書のキリストの謎を解き明かすたとえ話を考察された。

 初めに教皇は、「神はアルファでありオメガであり、歴史の始まりと終わりです」と述べ、今日の「王たるキリストの主日」の典礼は「オメガ」、つまり最終目標、とされ、「歴史の意味は、その頂点を私たちの目の前に置くことによって理解されます。目標は終わりでもあります」と語られた。

 マタイ福音書(25章31-46節)では、イエスがご自身の地上での人生の終わりに、私たちが受ける普遍的な裁きについて、たとえ話を使って教えておられる。

 教皇は、「ご自身の死と復活において、イエスは歴史の主として、宇宙の王、すべての裁判官として現れます。しかし、キリスト教のパラドックスは、裁判官が、王族の恐ろしい罠にはまり込むことのない、『柔和さと憐れみに満ちた羊飼い』であるということです」と語られた。

 そして、最後の審判についてのこのたとえ話で、イエスは羊飼いのイメージを使っておられる、と指摘。「イスラエルの邪悪な牧者に対して神の民を支持する神の介入について語った、この日のミサの第一朗読にあるエゼキエルの預言を思い起こさせます」とされ、「牧者は残酷な搾取者であり、群れよりも自分たちを養うことを好みました。だが、神ご自身が介入され、群れを個人的に世話し、不正や虐待から守ることを約束されます」と強調。

 そして、「神がご自分の民のためになさったこの約束は、イエス・キリストによって完全に成就されたのです… イエスは、ご自身のことを『私は良い羊飼いだ』(ヨハネ福音書10章11節、14節)と言っておられます」と説かれた。

 また教皇は「今日の福音書の箇所で、イエスは自分自身を、王の羊飼いだけでなく、失われた羊-つまり最も小さい者であり兄弟姉妹の中でもっと必要とされている者として見ておられます… さらに、イエスは、判断の基準をこのように示されます-与え、あるいは否定した具体的な愛に基づいて人々を判断する、それはご自身が裁判官であり、人それぞれの中に(イエスが)いるからだ、と」。

 また「この最も小さい者の1人にしなかったのは、すなわち、私にしてくらなかったのである」という今日読まれたマタイ福音書のイエスの言葉を取り上げ、「愛で、私たちは判断されます。感情ではなく、働きで、共感で、そして親切な助けで、判断されます」とされ、世界の終わりに、「主は群れを検査し、羊飼いの観点からだけでなく、彼が彼自身を特定した羊の観点からも検査するでしょう… 私たちに尋ねるでしょう。『あなたは、私と同じ、羊飼いのように振る舞いましたか?』と」と言われた。

 そして、これは、「今日の福音が判断の基準として私たちの心に示していることですー『私が困ったいた時、あなたは私の世話をするために少しばかり時間を使うことができましたか?私の恵みで、私が助けを必要としていることに気付くために、少し表に出ることができましたか?私の傷、孤独、不快感の前にあなたの心は鈍りましたか?」

 「これは、私たちを救うために自分を子羊にした宇宙の王キリストが、私たちを調べ、判断する基準になります」として、こう締めくくられた。「聖母マリアに、奉仕することによって治めることをて、教えてくださるように祈りましょうー「謙虚で心の広い奉仕の扉を今もなお通り、神の王国に入ることを、あなたから学ばせてください」。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

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2020年11月22日