♰「教皇、神はすべての人に、いつも呼び掛けておられる」25主日正午の祈りで

(2020.9.20 Vatican News)

    教皇フランシスコは20日、年間第25主日の正午の祈りの説教で、この日のミサで読まれたマタイ福音書の「ぶどう園の労働者」のたとえ話(20章1~16節)について考察され、この箇所でぶどう園の主人の2つの行為ー「呼びかけ」と「報い方」に注意を向けられた。

 イエスはこのたとえ話の中で、夜明けとともに町に出かけ、自分のぶどう園で働くように「呼び掛ける」主人について語っている。

 教皇は、「その主人は… すべての人に呼び掛ける、いつも呼び掛ける神を表しています」とされ、これが今も神がなさるやり方であり、私たちもそれに倣い、人をどこにいても探し求めるように促されている、と指摘。「これは、辺境に置かれた人々ーキリストととの出会いでもたらされる力と光をまだ経験していないか、失ってしまった人々ーに希望をもたらすように努めるように、私たちに求めておられていることを意味します」と説かれた。

 さらに、教皇は、「教会は、いつも神のようでなければならず、いつも外に出て行かねばなりません。そして、外に出て行かないなら、教会は健康を害してしまいます」と警告し、「教会にとって、福音を告げるために、危険を冒してでも、外に出ることは、自分の中に籠って、健康を害するよりも、良いことなのです… 神はいつも外に出て行きます。神は愛する父、そして教会は、いつも同じことするー外に出る必要があるのです」と強調された。

 ぶどう園の主人のもうひとつの行為も、神の行為ー「報い方」-を示している。主人が管理人を通して労働者に賃金を支払う時、働いた時間に関係なく、全員に同じ賃金を払った。このことから、「イエスが、仕事と賃金についてだけではなく、神の王国と天の父の優しさについて語っていることが分かります」とされ、さらに、「神は、私たちが働いた時間と成果には注目されず、私たちが神への奉仕にどれほど用意があるかをお考えになります… こうした神のなさり方は、『正義』以上のもの、正義を超え、主の恩寵で明らかにされるものです」と語られた。

 そして、自分の功績に頼る人は、先に来ても「後に」なり、父の慈悲に謙虚に身を委ねる人は、後に来ても「先に」なる(マタイ福音書20章16節)、と説かれた。

 最後に教皇は次のように締めくくられた。「この世界である神の場、教会である神のぶどう園で、ご自分のために働くように、との神の呼びかけを受けることの喜びと驚きを、私たちが日々、感じるように、聖母マリアが助けてくださいますように… 私たちが唯一の報酬として神の愛、私たちにとってのすべてであるイエスの友情を、手にすることができますように」。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

このエントリーをはてなブックマークに追加
2020年9月20日