♰「四旬節は、私たちが神に立ち帰る旅路」ー教皇「灰の水曜日」ミサで

(2021.2.17 Vatican News  Devin Watkins)

  教皇フランシスコは17日、聖ペトロ大聖堂で「灰の水曜日」のミサを捧げられ、世界中の信徒たちに、「今日から始まる四旬節を、父と子と聖霊に向かっての“復路”の旅とするように」と促された。

 ミサ中の説教で、教皇は、四旬節を神に立ち帰る旅として、そして私たちの兄弟姉妹への愛を深める機会として考察され、「神は、私たちの心と私たちの全存在に呼びかけ、ご自分の所に来るように招いておられます」とされたうえで、「今は、私たちが歩んでいる道を考え直す時。私たちが家に戻る道を見つけ、すべてのものが頼りとする神と私たちの深い関係を再発見するように、です」と語られた。

*奴隷の状態から、自由の身へ

 そして、信徒たちに、この四旬節に、自分の人生がどこに向かっているのか、どれほどしっかりと、神への道を歩んでいるのか、と考え直すように、強く訴えられた。 「四旬節の旅は、奴隷の状態から自由の身への脱出の旅… 旅を続けるうちに、以前の習慣や幻覚に戻ろうとする誘惑を感じるでしょう。しかし、どれほどつまずこうとも、神の御言葉に心を向けることで、私たちが歩む道を、また見つけることができるのです」と説かれた。

*父、子、聖霊へ

 教皇は、四旬節の最初のステップは、告白の秘跡で神の赦しを受けることによって、父に戻ること、が含まれる、と指摘。「私たちをいつも立ち直らせるのは、父の赦しです」とされた。

 さらに、「私たちはイエスに戻る必要があります。彼に感謝するために戻ったハンセン病の患者のように、私たちにも、イエスの癒しが必要です。それには彼に傷を示してこう言う必要がありますー『イエス、私はあなたの前にいます。あなたは医者です。罪、悲しみから、私を解放することがおできになります。私の心を癒してください』と」と勧められた。

 続いて教皇は「私たちは、聖霊に戻るように招かれています」とされ、「今日のミサで、私たちの頭に灰がまかれたことは、私たちが”ちり”であることを思い出させます。しかし、私たちの”ちり”の上に、神は命の霊を吹きかけられたのです」と言われた。

*心からの和解

また教皇は、私たちの神に戻る旅は、神が先に「私たちに旅をされた」からこそ、可能であり、イエスが私たちの罪と、死を受け入れられたゆえに、「私たちの旅は、その御手で私たちをつかんでいただくことイエスに私たちを手で連れて行かせること」と語られ、「神の招きに対する私たちの応えには、行為と実践を伴った、心からの和解が含まれます」と述べられた。

*愛をもって降りていく

 教皇は説教の最後に、四旬節が、神と私たちの兄弟姉妹に向かって旅するのに適切な時期だということを改めて強調され、次のように締めくくられた。

 「四旬節は私たちの内面と他の人々に向け、謙虚な心をもって降りていくこと。それは、救いが栄光に向けて登るのではなく、愛をもって降りていくのだということを、はっきり理解することです… どれほど頻繁につまずいたとしても、私たちは、いつもキリストの十字架に顔を向け、キリストの傷の中に、自分の欠点と空虚さを思い知ることができます。私たちは、その傷に接吻することで、生涯で最も痛みを伴う傷の中に、無限の憐れみをもって、神が私たちを待っていてくださることに気付くでしょう」。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

(バチカン放送日本語課のまとめ)

 教皇はミサの説教で、「今からでも、心を尽くし、断食と泣き叫びと嘆きをもって、私に立ち帰れ」(ヨエル書2章12節)という、神の御心からの招きを考察された。

 まず教皇は、「四旬節は、神のもとに立ち帰る旅路」とされ、多忙を言い訳に、神と向き合うことを先延ばしにし続ける私たちに、今、神自らが、ご自分のもとに帰れ、と呼びかけておられる、と話された。

 神が「『心から』立ち帰れ」と言われるように、その回心は「心から」のものでなくてはならず、それゆえ「四旬節は、私たちの全生活、全身全霊をもって歩む旅」と語られた。

 「四旬節は、小さな信心業を積み重ねるのではなく、自分の心の向かう先を識別する時です」と教皇は話し、「自分の人生は神に向かっているのか、『私』に向かっているのか。主のみ旨にかなうことを喜びとするのか、人々の間で目立ち、称賛され、人気を得るために生きるのかーを、私たちは自らにとうべきです」と述べられた。

 さらに「四旬節は、隷属からの解放の旅」とされ、神の民が、エジプトを出て約束の地に向かう砂漠での旅で、エジプトを懐かしんだように、「私たちも悪い習慣の誘惑や偽りの安泰に囚われるとしても、歩み続けるために、これらの幻想を脱ぎ捨てる必要があります」と語られた。

 そして教皇は、「神に向かって歩み続けるための助けを、神のみ言葉の中に求める」ように勧められた。

 また、「放蕩息子のように、”家の香り”を忘れ、大切なものを浪費し、虚しい心を抱く私たちは、歩いては何度も転ぶ子どもであり、そのたびに御父に助け起こしてもらわなければなりません」とされ、「御父の赦しは、常に私たちを立ち直らせてくれます。赦しの秘跡に与ることは、御父のもとに帰る旅の第一歩」と指摘された。

 次に、「私たちは、イエスに癒された重い皮膚病を患っていた人のように、感謝するためにイエスのもとに戻らなければなりません… 戻って来て、イエスの足もとにひれ伏したこの人に倣い、私たちも、自分の罪と惨めさをもったままイエスの御前に進み出て、解放と癒しを願うべきです」と説かれた。

 続いて教皇は、「聖霊のもとに帰るように」と信徒たちに呼びかけられた。「灰の水曜日に頭に受ける灰は、私たちが“ちり”であり、“ちり”に戻ることを思い起こさせますが、この”ちり”の上に、神は命の霊を吹きかけられます。それゆえ、私たちは、はかない物事を置き去り、命の与え主、私たちを灰からよみがえらせる炎である聖霊に立ち帰らなくてはならないのです」と説かれた。

 また、「神のもとに帰ることは、自分の力ではできません。神の恵みを受け入れ、自分は神の憐みを必要とする者である、と認めることで可能になります… 謙遜の道こそが、神のもとに帰る正しい道です」と強調。

 さらに、「この水曜日に、私たちは頭を垂れて灰を受け、聖週間には、さらに身を低くして兄弟たちの足を洗うことになります」とされたうえで、「四旬節は、謙遜に、自分の内面に降りていくと同時に、他者のために自分の身をかがめる時。救いとは、栄光に上ることではなく、愛のために身を低めることと知る時なのです」と語られた。

 最後に教皇は、四旬節の歩みの中で迷わないために、「十字架のイエスの前に、神のその沈黙の学び舎の前に立ち、イエスの傷を見つめるように… その傷が私たちのために開き、その傷によって私たちが救われたことを思い起こすように」と信徒たちに促された。

(編集「カトリック・あい」=表記は原則として当用漢字表記に、聖書の引用は「聖書協会・共同訳」に改めました)

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2021年2月17日