♰「主よ呼びながら、目覚めて、朝の訪れを待とう」-待降節第一主日のミサ説教

 

Pope Francis celebrates the Eucharist with new CardinalsPope Francis celebrates the Eucharist with new Cardinals  (Vatican Media)

(2020.11.29 バチカン放送)

 11月29日、カトリック教会の暦は、降誕祭の準備期間である「待降節」に入ると共に、新しい典礼暦年をスタートさせた。同日午前、教皇フランシスコは、バチカンの聖ペトロ大聖堂で、前日の枢機卿会議で叙任された新枢機卿と共に、待降節第一主日のミサを捧げられた。

説教で教皇は、「そばにおられること」、「目覚めていること」を、待降節のキーワードとして挙げ、「待降節とは、私たちのもとに降りて来られた『そばにおられる神』を記念し、福音書でイエスが呼びかけておられるように、主を『目を覚まして』待つ時です」と話された。

教皇は、ミサ中の、第一朗読のイザヤの言葉「どうか天を裂いて、降ってください」(63章19節)や、答唱詩編の「私たちを救うために来てください」「万軍の神よ、立ち帰ってくださ『主イエスよ、来てください』(黙示録22章20節参照)と、生活の中で繰り返し呼ぶように」と勧められ、主を呼びながら、私たちは「目覚めていること」を学ばなければならない、と説かれた。この日の福音朗読の中でも、イエスは「目を覚ましていなさい」と4度も繰り返されている(参照:マルコ福音書13章33-35節.37節)と指摘、「人生の一つの過ちは、多くのことに気をとられ、神の訪れに気がつかないことです」と話された。

そして、「目を覚ましている必要がある」ということは、すなわち私たちは「夜の闇にいて、朝の訪れを待ちながら、気を落とさずに、希望をもって生きる必要がある」ということ、とされ、目を覚まして待つ中で、陥る危険のある「眠気」として、「生ぬるさの眠気」と「無関心の眠気」を挙げられた。「生ぬるさの眠気」とは、「神への愛を忘れ、神と向き合う努力をせず、平凡で世俗的な精神によって信仰を蝕むリスクのこと」であり、これに対して「祈り」は「闇に火を灯し、神の近くに留まること」を可能にする、と話された。

一方、「無関心の眠気」とは、「自分のことだけを考え、他者に無関心になることであり、心に闇が降りてきた状態」とされ、これに対して、「愛徳の業は、キリスト教生活に脈打つ鼓動となって、この無関心の眠気からわたしたちを解放するだろう、と語られた。

最後に教皇は、「祈ることと、愛することーこれが目を覚ましていることなのです」と強調され、「イエスよ、私たちのそばに来てください。あなたは光です。私たちを生ぬるさの眠気と、無関心の闇から目覚めさせてください」と祈られた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

このエントリーをはてなブックマークに追加
2020年11月29日