☩イエスに対する二つの誤った理解から警告を学ぶ

(2018.6.10 バチカン広報 「カトリック・あい」翻訳・編集)

 教皇フランシスコは11日正午のお告げの祈りで、次のように説教をなさった。

 「親愛なる兄弟姉妹の皆さん、おはよう!

 今日の主日の福音(マルコ福音書3章20節-35節参照)は、イエスが直面された、律法学者たちとご自身の家族たちによる二つの誤った理解について語っています。

 まず、律法学者たちの誤った対応です。彼らは聖書について教育を受け、人々に対しての説明を任されていました。彼らの中にはエルサレムから、イエスの名声が広がり始めたガリラヤに派遣されてきた人もいます。その目的は、人々の眼前でイエスの信用を失墜させ、口のうまい人々に話させて、一方の人の信用を落とし、権威を損なうこと。見苦しい行為でした。そういうことをするために派遣されてきたのです。彼ら律法学者たちは、まさにその通りの、ひどい言いがかりをつけに、やって来ます-手段を惜しまず、町の中心に来て、こう言います-「あの男は、ベルゼブルに憑りつかれていて、悪霊の頭の力で、悪霊を追い出している」(22節)と。つまり、悪霊の頭がイエスを動かしている-だから、イエスはいずれにせよ、「悪魔に憑りつかれた者」というわけです。実際に、イエスはたくさんの病気の人を癒しましたが、律法学者たちはそれを、神の霊による行いではなく、悪霊によるもの、悪魔の力によるもの、と見せかけたかったのです。

 これに対して、イエスは力強い、はっきりした言葉で応え、彼らのことを大目に見ることはしません。なぜなら、律法学者たちは、おそらく分かっていなかったのでしょうが、イエスの中におられ、働いておられる神の愛を否定し、冒涜するという、重大な罪に陥っているのです。冒涜、聖霊に対する罪は、唯一の赦されることのない罪-イエスはそう言われます-イエスの中に働いておられる神の慈しみに心を閉ざすことから始まるからです。

 しかし、この出来事には、私たち皆に役に立つ警告が含まれています。実際のところ、人の徳と善行への強い妬みが、誤った非難につながることは、起きるでしょう。そこには、本当の猛毒-計画的に、他の人の良い評判を打ち壊そうとする、敵意-があります。神は、このような恐ろしい誘惑から私たちを解放してくださるのです!そしてもし、自分の良心を調べて、心に邪悪な草が芽を出していることが分かったら、それが育ち、効果を発揮し、治せなくなる前に、急いで、赦しの秘跡を受け、告白しましょう。用心してください。このような邪悪な態度は家庭を、友情を、共同体を、そして社会を壊してしまいますから。

 今日の福音はまた、別の、とても違った、イエスに対する誤った理解についても、語っています-イエスの家族の無理解です。彼らは心配しました-イエスの新たな各地を渡り歩く暮らしぶりが、彼らにとっては「気が変になっている」(21項)ように見えたからです。実際に、イエスは誰とでも、とくに病人たちと罪びとたちに進んで接し、食事をする暇もないほどでした。イエスはこのような方でした-人々が第一、人々に奉仕し、人々を助け、人々を教え、人々を癒す。それは人々のためでした。イエスは、食事をされる時間さえなかったのです。ですから、家族はイエスをナザレの家に連れて帰ろうと決めます。イエスが教えておられる所に来て、人をやって、彼を呼ばせました-「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが、外であなたを捜しておられます」(32項)と。

 イエスはお答えになります-「私の母、私の兄弟とは誰か?」。そして周りに座っている人々を見回して、こう付け加えます-「見なさい。ここに私の母、私の兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、私の兄弟、姉妹、また母なのだ」(33‐34項)と。イエスは新しい家族を作られました-それは、生れながらのきずなに基づかず、イエスへの信仰、私たちを喜んで受け入れ、聖霊において私たちを結びつけるイエスの愛に基づいた家族-なのです。イエスの言葉を受け入れた人は全員が神の子たちであり、互いが仲間なのです。イエスの言葉を喜んで受け入れることは、私たちを互いに仲間にし、イエスの家族にするのです。

 先のイエスの返事は、ご自身の母と家族に対して敬意を払っていないのではありません。実際のところ、マリアにとって、それは「すべてにおいて神のご意志に従う完璧な弟子である」という、彼女に対する一番素晴らしいイエスの認識を示す言葉なのです。

 聖母マリアが、イエスと共に生きるよう、私たちを助けてくださいますように。イエスと教会の中に働いている聖霊の業を認め、この世に新たな命をよみがえらせることができますように。

 

 

 

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2018年6月11日