(2021.12.5 Vatican News staff writer)
ギリシャ訪問中の教皇フランシスコは5日夕、首都アテネのメガロンコンサートホールで、司祭、信徒約2000人参加の待降節第2主日のミサを奉げられた。ミサ中の説教で教皇は、「私たちが”砂漠”の苦しみにあっても、主は、私たちが場を空ければ、そこにおられ、助けてくださる。希望を持ち続けましょう」と呼びかけられた。
教皇は説教で、ミサで読まれた福音書の箇所ー荒れ野で洗礼者ヨハネが人々に回心を呼びかけた箇所(ルカ福音書3章1-6節)を取り上げ、「ここで描かれている“荒れ野”は、救いの道が現世的な力の下で始まったのではなく、貧しく、飾りのない”、そして近寄りがたい、危険な場所で始まったことを、私たちに教えています」とされた。
そして、「まさに『主の栄光』は、このような広大で乾いた荒れ野で、明らかにされたのです… これは、救いを待ち望んでいた人々には驚きですが、しっかりと味わうべき、素晴らしいメッセージです。なぜなら、主が大切にされるのは、『荒れ野』が、やせた何もない所であるように、小さく、みすぼらしいもの、私たちが、誇らず、内面的に貧しくあろうとすることだからです」と説かれた。
*主は私たちの”荒れ野”においでになる
洗礼者ヨハネは、人々に回心の必要を説くことで、荒れ野でキリストの再臨を準備したが、教皇は、「神は今、私たちが試練や悲しみに直面しているところならどこにでも、眼差しを向け、私たちの内面的な空白を神で埋めようとするなら、私たちが実際にいる”荒れ野”に来てくださいます」とされ、「私たちは、日々の暮らし中で、”荒れ野”で迷子になっている、と感じることがよくあります。まさに、そのような時に、私たちの”誇り”が主を迎え入れるのを邪魔しないなら、主がおいでになる、と感じることができるようにしてくださるのです」と強調された。
さらに、「主は、親しく、思いやりとやさしさに満ちた言葉で、私たちを訪ねてくださいます。そして、洗礼者ヨハネの荒れ野での説教は、『神は、私たちがいる所ならどこにでも訪ねて来られ、私たちの”小ささ”への愛を持って、私たちの乾いた魂を生き返らせてくださる』というメッセージを分かち合うものです」とされ、「(キリスト教徒が少ないギリシャ、アテネにいる)皆さんは、”小さいこと”や人数か少ないことを、辛く感じないように。それよりも大事なのは、神と他の人々に対して心を開いていることです」と、信徒たちに諭された。
*「回心」の元のギリシャ語の意味は「超えて考える」こと
また教皇は、「洗礼者ヨハネが『回心』を説くことに重きを置いていることは、私たちを不安にさせるかもしれません。それは、私たちが生き方を変えることがどれほど難しいか痛感しているため、あるいは、回心を、『完徳』に達すること、自分自身では達成できないこと、と見ているからでしょう」と語られた。
そのうえで、「私たちの問題は、『すべては自分次第』と考えていること。回心は、福音書が書かれた時に使われたギリシャ語では『metanoeίn』。文字通りの意味は『超えて考える』です。つまり、私たちの常識を超え、私たちが持ってきた世界観を超えること、そして、私たちの”自給自足”の信念、自分のことだけ、自分のやり方だけを考えるのを捨てることを意味します。回心を呼びかけることで、ヨハネは、現在いる場所を”超え”て行くように、私たちを促している。神は、私たちよりもはるかに大きな存在だからです」と説かれた。
*神はいつもおいでになる
さらに教皇は、「『回心』とは、神がいつもおられること、神が私たちの未来、力であり、私たちは神を信じねばならないこと、を知ることです。私たちに必要なのは、キリストに扉を開き、迎え入れ、驚くべき業をしていただくこと。荒れ野とヨハネの説教が、キリストがこの世に来られるためにとった、すべてであったようにです」と述べられた。
説教の最後に教皇は、「私たち皆が、『神と共に、すべてのことが本当に変わる』と信じることができますように、私たちの恐れを取り除き、私たちの傷を癒し、『私たちの乾いた荒れ野を泉に変えてくださいますように」と主の恵みを祈られたー「私たちは、希望の恵みをいただけるように願います。それが、私たちの信仰を、互いに助け合う心を、育むことができるからです。希望は、今の世界の”荒れ野が飢え乾いているからこそ、必要なのです」。