☩教皇、四旬節第4主日の正午の祈り「開かれた心で神の慈しみを受け取れますように」

(2022.3.27 Vatican News staff writer)

 教皇フランシスコは27日、四旬節第4主日の正午の祈りに先立つ説教で、この日のミサで読まれた福音書の「放蕩息子」のたとえ話を取り上げ、このたとえ話から、私たちは、「神は、私たちの最悪の罪さえも赦し、戻ってくる私たちを歓迎し、そして、私たちのために祝宴を開いて喜んでくださる父」であることを学ぶことができる、と語られた。

 「私たちが、その父の息子であり、父はいつも私たちを深く愛してくださり、私たちを待っていてくださる、と思うと、とても心打たれます」。

*頑なな心で神と距離を置かないように

 このたとえ話には、放蕩の限りを尽くしたあげくに父に赦してもらおうと家に戻って来た弟を、父が喜んで迎えた時に、兄が怒って家に入ろうとしなかったことも、書かれている。

 教皇は、「この兄のような振る舞いを、私たちもすることがあります。神との関係が、義務を果たし、命令を守ることにあると信じているために、怒りたくなるのですが、そのような時、私たちは、神の父親としての、限りない慈しみ、思いやり、愛を忘れています」と指摘。「私たちの頑なさが、神と距離を置くような仕方で、神との関係を作る危険を知る必要があります」と説かれた。

*大いに喜びなさい

 教皇はその後、たとえ話の父が兄に心を開いて弟を歓迎するように懇願したとき、父が自分の心を開いてこう言ったとき、次のように語っています。死んでいて、生きています。」教皇は、私たちも一瞬を振り返り、父が私たちの心に必要としているこれら二つのこと、「陽気になり、喜ぶこと」もあるかどうかを見るべきだと言いました。

*悔い改める人の側に

 また、このたとえ話に書かれている、父が、帰って来た息子を家に迎え入れ、「喜び祝った」ことは、「リスクを冒す恐れがあったり、遠くにいたりしても、悔い改め、あるいは悔い改めようとしている人たちの側に、私たちがいることを意味します」と語られ、「そうすることで、自分自身の過ちを思い出すことで生まれる恐れや失望に対応できるのです」と説かれた。

 そして、「父である神のように、私たち全ての人を温かく迎え入れ、励まさねばなりません。彼らと距離を置いたり、咎めたりすることは役に立ちません。遠くにいる人たちにも手を差し伸べ、彼らを励まし、彼らがより良い方向に変わるときに共に祝うために、そこにいなければなりません」とされた。 「開かれた心、耳、澄み切った笑顔で、どれほど多く、良いことができるでしょうー祝うために、気まずくさせないために!」

*神と”同期”した心 

 教皇はさらに、「私たちは、大いに喜ぶ必要があります」とされ、「私たちの心が、本当に神と”同期”していれば、誰かが悔い改めを見て、その人にどのような深刻な過ちがあっても、過ちを糾弾し続けることはできず、彼が選択した善のゆえに、共に喜びます。ですから、他の人たちが喜ぶような、そして共に喜べるようなやり方を学びましょう」と信徒たちを促された。   最後に、「聖母マリアが、私たちの隣人を見る光となる「神の慈しみ」を受け取れる方法を教えてくださいますように」と祈られた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

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2022年3月27日