☩教皇、南スーダン訪問2日目:「あなたがたには、アフリカのために死ぬ覚悟のある勇敢な精神が求められている」司教、司祭、修道者たちに

Pope addresses clergy in South SudanPope addresses clergy in South Sudan  (Vatican Media)

 南スーダンを訪れている教皇フランシスコは、訪問2日目の4日午前、首都ジュバの聖テレジア大聖堂で、この国の司教、司祭、助祭、修道者など教会関係者と集いを持たれ、講話の中で、「アフリカのために死に、苦しむ覚悟のある勇敢で寛大な精神が求められている」ことを強調された。

 教皇はこの集いの後、バチカン大使館で現地のイエズス会士たちと私的な会合を持ち、午後には市内のフリーダム・ホールで国内避難民たちとお会いになり、さらに、ジョン・ガラン霊廟で、同行中の英国国教会のカンタベリー大主教、スコットランド国教会の総会議長と共にエキュメニカルな祈りを捧げられた。

*多くの命が打ち砕かれている

 講話の中で、教皇は、前日の南スーダンの大統領はじめ各界代表との会見での講話で話された、この国を流れるナイル川の水のイメージを思い起され、「 聖書の中で、水はしばしば創造における神の活動と結びつけられる。神の憐れみは荒れ野をさまよう人々の渇きを癒し、その慈しみは罪の沼に落ちた人々を清め、洗礼の水は聖霊において人を新たにし、聖なるものとします」と語られた。

 そして、「同じ聖書の観点から、ナイル川の水をもう一度見てみたいと思います」とされ、「バビロンの川のほとり そこに座り、私たちは泣いた シオンを思い出しながら」と詩編(137章1節)にあるように、「その大河の水は、あなたがたの共同体の、ため息と苦しみ、打ち砕かれた多くの命の痛み、故郷を出た人々の悲劇、多くの女性や子供たちの心と目の中にある悲しみと恐怖を集めています」と嘆かれた。

*「自分がすべての中心にいる、と思うな」

 また、「解放と救いの物語」であるモーセの物語、神の民を砂漠の中で目的地に導いた物語を思い起こされ、「戦争、憎しみ、暴力、貧困で傷ついた土地で、私たちが神の奉仕者であることの意味を自問しましょうーこの土地の、無実の血に濡れた川のほとりに沿って、私たちに委ねられた人々の涙で汚れた顔の中で、どのように私たちの使命を果たすことができるのか?」と司教、司祭、修道者たちに問題提起された。

 この問いに答えるために、教皇は彼らに、モーセがとった 2 つの振る舞い、つまり「従順」と「取り次ぎ」を考えるよう促された。そして、「従順」について、「モーセの従順、神の働きかけに対する従順な対応は模範的ですが、いつもそうだったと考えてはなりません」とされ、初めに、モーセが「自分の力で不正と抑圧に立ち向かおうとした」ことを指摘。

 「モーセの過ちは、自分自身を中心に置き、自分の力だけに頼っていたこと」であり、「人間のやり方の中で最悪のやり方にとらわれたまま、暴力には暴力で対応したこと」と語られ、聖職者たちに対して、「自分がすべての中心にいると考える傾向に陥らないように」と警告された。

*「私たちが成し遂げるすべては主からのものだ」

 教皇はさらに、「教会として、人々の苦しみやニーズへの答えを、お金、賢さ、権力などの人材を通じて見つけることができる、と考えること」に警告され、「私たちが達成することはすべて神から来ている。神は主であり、私たちは神の手の従順な道具になるように召されています。これが私たちの使命を果たすために必要な『従順』であり、『驚きと謙虚さをもって神に近づき、神に引き寄せられ、神に導かれ、優位性が神のものであることを理解する準備ができていること』なのです」と強調。

 そして、「主に引き寄せられ、主と共に祈りの時間を過ごし、毎日神の奥義に近づきましょう。そうすることで、神は、私たちのプライドと過度の野心の”枯れ木”を焼き払い、私たちに世話を任せられたすべての人の旅の仲間にしてくださいます」と説かれた。

*「人々のために”手を汚す”教会となれ」

 続いて教皇は、モーセの振る舞いの第二の側面である「取り次ぎ」に目を向けられ、「神の前でのモーセの『従順さ』が、人々のための『取り次ぎ』を可能にし、彼らを神に近づけます」とされ、「私たちの第一の義務は、『完全に組織化された教会』になることではなく、キリストの名において、『人々の困難な生活の真っ只中に立つ教会』『人々のために手を汚すことを厭わない教会』になることです」と強調。司教、司祭、修道者など聖職者たちに、「人々と共に働き、共に歩むこと」「名声を決して追い求めないこと」を強く求められた。

 さらに、「『個人主義』や『党派的利益』を追求する誘惑を取り除くためにあらゆる努力を払う」よう促され、「教会の司牧者が人々と交わることができず、協力できず、無視さえすることが、いかに悲しいことか」と注意された。

 そして、「相互の尊重、親密さ、実際的な協力を育むように」と促され、「私たちが自分で出来ないことを、どうして、他の人に説教できるでしょうか?」と問いかけられた。

*基本的権利の侵害、「キリストに対する侮辱」

 続けて教皇は、「取り次ぎ」について、モーセの手を見るように言われ、「聖書は、この点に関して私たちに神と民との仲介者であるモーセの3つのイメージー杖を手にしたモーセ、腕を広げたモーセ、両手を天に上げたモーセーを提供していること」に注意を向けられて、「杖を手にしたモーセの預言者としての言動、民の間で働かれる神の業を示すモーセの広げた腕、民が罪に陥るたびに神との間を取り持つために祈り、天に向けて上げられるモーセの手を注視するように」と促された。

 そのうえで、聖職者たちに、「兄弟姉妹の皆さん。取り次ぎをする司牧者となることを希望するなら、不当な行為や暴力による苦痛の前に中立を保つことはできません。 男女の基本的権利を侵害することは、キリストに対する罪です」と言明。

 また、腕を広げたモーセは、「聖書が、モーセが海の上に手を伸ばした、と述べていることを思い起こさせます。兄弟姉妹の旅を支えるために、私たちの腕を兄弟姉妹に差し伸べる必要がある」と説かれ、「私たちの手が聖霊をもって油注がれたのは、神聖な儀式のためだけでなく、人々を麻痺させ、自分自身に閉じこもらせ、恐れさせるものから去らせるよう、励まし、助け、共に歩むためなのです」と強調された。

*「福音を証しするために命を捧げる」

 「両手を天に上げたモーゼ」について、教皇は「モーセは最後まで人々と共に立ち、彼らのために手を挙げました。彼は自分一人で救おうとは考えていませんでした。彼は自分の利益のために人々を売ることはしませんでした!」と強調。「取り次ぐ者がなすべきことには、人々のもがき、争いを祈りの中で神の前に導き、彼らのために赦しを得、神の憐れみの中で和解を進めることが含まれます」と明言された。

 そして、「愛する皆さん。これらの預言者の手、伸ばし、挙げられた手は、多大な努力を必要とします。預言者、仲間、仲介者になること、神がご自身の民のそばにおられることの神秘を、私たちの活動で示すことは、自分の命を犠牲にする可能性があります」とされ、「実際に、これまで多くの聖職者や修道者が暴力や攻撃の犠牲となり、命を落としています。非常に現実的な方法で、彼らは福音のために命を捧げたのです」と指摘。

 「彼らの兄弟姉妹と深い関わりは、彼らが私たちに残した素晴らしい証しであり、使命をさらに前に進めるように、私たちを促す遺産です」と強調された。

 

 

*「アフリカのために苦しみ、死ぬ覚悟がある勇敢で寛容な精神が必要」

 関連する形で、聖ダニエレ・ コンボーニと、彼が宣教師の兄弟たちと共に南スーダンで行った偉大な福音宣教の業を思い起こされ、聖人が「宣教師はキリストと福音のために、いかなることもする覚悟ができていなければならない」と言っていたことを指摘。「私たちは、アフリカのために苦しみ、死ぬ覚悟がある勇敢で寛容な精神を必要としているのです」と訴えられた。

 最後に教皇は、カトリック教会を代表して、多くの試練と苦難の中で南スーダンの聖職者たちが行っているすべてのこと、特に彼らの献身、勇気、犠牲、忍耐に感謝され、彼らが「祈りと愛のみで武装した、常に寛容な司牧者、証人であり続ける」ように祈られ、「聖母マリアがあなたがたを守ってくださるよう祈ります。私のためにもお祈りください」と述べられた。

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 南スーダンの人口に対する各宗教の信者の割合は、カトリックが720万人と総人口の約半分を占め、プロテスタント約20%、イスラム教約10%、残りが伝統宗教などとなっている。カトリック教会は7教区と、10人の司教を持つ。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二=聖書の引用日本語訳は「聖書協会・共同訳」による)

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2023年2月4日