☩信仰生活の”慣れ”が福音を矮小化する

(2018.10.5 バチカン放送)

 教皇フランシスコは5日、バチカンのサンタ・マルタ館の礼拝堂でミサを捧げられ、説教の中で「キリスト教生活を単なる社会習慣のように、形式的に生きてはなりません」と注意された。

 教皇は、この日の福音朗読箇所、ルカ福音書のイエスが悔い改めない町を叱る場面(ルカ10章13-16節)を取り上げられた-イエスは、奇跡が行われても、悔い改めようとしなかった、コラジン、ベトサイダ、カファルナウムの町を叱責された。ガリラヤ地方のこれらの町々を、異邦人の地であるティルスやシドンと比べ、「これらの町で奇跡が行われていれば、とうの昔に悔い改めただろう」と語っている。

 教皇は「イエスは、奇跡を行ったにもかかわらず、ご自分を拒否し、回心しなかった町のために嘆き、彼らすべての心に愛のメッセージが届かなかったことを悲しまれました」と話され、「キリスト者としての私たちの態度を、コラジン、ベトサイダ、カファルナウムの町の人々の態度と重ねて考えるように」と促された。

 そして、「主から多くを受け取り、救いを知ったのに、キリスト教社会に生まれ、信仰教育を授かったのに、私たちがイエスのことを簡単に忘れてしまうのはなぜでしょうか」と問いかけ、その原因が、「慣れ」にある、と指摘され、この「慣れ」が、「福音を社会学的なものに矮小化し、イエスとの個人的な絆を忘れさせてしまうのです」と話された。

 さらに「イエスは私たち一人ひとりに話しかけておられ、異邦人がイエスの説教を聞いてイエスに従うのに、キリスト教社会に生まれた私たちは、キリスト教の信仰生活が単に社会的習慣であるかのように、ただ形式的に生きています」と注意された。「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ」(ルカ10章13節)というイエスの嘆きを聞きながら、「私たちは、イエスがご自身を与えてくださったにもかかわらず、表面的な生き方をし、イエスを心から追い出しています。そうした自分たちの心を問わなければなりません」と説かれた。

(編集「カトリック・あい」)

このエントリーをはてなブックマークに追加
2018年10月7日