☩「”首位の座”渇望の病に対する最良の”解毒剤”は『奉仕すること』」

(2018.10.21 バチカン放送)

 教皇フランシスコは21日、バチカンでの日曜正午の祈りに先立つ説教で、この日のマルコ福音書の朗読箇所、使徒ヤコブとヨハネがイエスに「栄光をお受けになるとき、私どもの1人をあなたの右に、もう1人を左に座らせてください」と願い出る場面 (10章35-45節)を取り上げられ、「イエスはここでも大きな忍耐をもって、弟子たちをこの世のメンタリティーから、神のそれへと回心させようとしておられます」と話された。

 そして、イエスの最初の弟子たちであるこの2人はイエスとその御国への情熱に燃えていたが、「その熱心さは、この世の精神に染まっていた」と指摘。イエスが「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。この私が飲む杯を飲み、この私が受ける洗礼を受けることができるか」(10章38節)と問われたのに対して、特権を熱心に望む2人は「できます」( 39節)と答えたものの、「自分たちの言っていることが分かっていなかったのです」と説明された。

 さらに、イエスのこの言葉は「その時が来れば、私の十字架に、あなたがたも加わることになる」という預言だったが、同時に「私に従い、犠牲における愛の道を学びなさい」という招きでもあった、と指摘され、他の10人の弟子たちも、これを聞いてヤコブとヨハネのことで腹を立て始めたが、「それは彼らも同様に、この世の精神に煩わされていることの証拠です」と話された。

 このような弟子たちの振る舞いをご覧になったイエスは彼らに「あなたがたも知っているように、異邦人の間では、支配者と見なされている人々が民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、一番上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」(42-44節)、さらに、「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」(45節)と語られた。

 この言葉を教皇は観想され、地上の支配者たちがその権力のために「王座」を築く一方で、神は「十字架」という心地のよくない王座を選び、自分の命を与えることで、その王国を治める、というイエスのメッセージを示された。そして、「奉仕することは、首位の座を求めることからくる病-多くの人に感染し、教会さえも余計なものとする病-に対する最も効き目のある解毒剤です」と強調し、「私たちがキリストの弟子として、この福音を受け入れ、貧しい人々に愛と単純さをもって奉仕できるように」と祈られた。

(編集「カトリック・あい」)

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2018年10月23日