☩「イエスは私たちに『立ち上がる』ではなく、『沈められる』ことを求めておられる」年間第29主日正午の祈り

 教皇フランシスコは17日の年間第29主日正午の祈りの説教で、聖霊に私たちの洗礼の恵みーイエスに、その生き方に浸された恵みーを新にしてくださるように祈るように会衆に促された。

 教皇は説教で、この日のミサで読まれたマルコ福音書(10章35~45節)を取り上げられ、冒頭の、弟子のゼベタイの子、ヤコブとヨハネがイエスに、「栄光」をお受けになる時に左右に座らせてほしい、と頼む場面に注目された。

 「2人の求めに対して、イエスは基本的な教えで応えられますー真の『栄光』は、『人々の上に君臨する』ことではなく(42,43節参照)、ご自身が間もなくエルサレムでお受けるになるのと同じ『 baptism(洗礼)を経験する』ことだ(38節参照)と」。 そして、「baptismがimmersion(沈められる)をことを意味するように、イエスは十字架につけられて、ご自身を死に『沈められ』、私たちをお救いになるためにご自分の命を捧げられる(注:弟子たちにも、その覚悟が無ければならない)と言われたのです。イエスの栄光、神の栄光は、仕える愛、であり、支配を求める権力ではありません(43~45節」と説かれた。

 また、教皇は、この箇所で二つの考え方が出てきているー弟子たちは「立ち上がる」ことを願うが、イエスは私たちに「沈められる」ことを望んでおられる、と指摘。

 「弟子たちの願いは、世俗的な誘惑に惹かれる心理状況を反映しており、すべてを所有し、体験するために、立ち上がり、野望を膨らませ、成功の梯子を上ろうとするもの。このような世俗的な名声の追求は、霊的な問題、善意は後ろに隠れ、最終的な欲望は全て自分自身と自己肯定についてのものになる可能性があります」と注意された。

 そして、「これが、私たちが常に自分の真意を識別しなければならない理由、何をする場合でも、私たちの心の底にある動機について自問せねばならない理由なのですー私たちは他の人たちに仕えようとしているのか、それとも、本当は、自分を認めてもらい、称賛され、好意をもたれようとしているのか?」とされ、「イエスは私たちに『立ち上がれ』と呼びかける代わりに『他の人たちに仕えなさい』と、『人々の上に君臨するために立ち上がりなさい』ではなく、『他の人たちの命の中に沈められなさい』と言われたのです」と強調。

 また、「沈められる」について、教皇は「イエスは、私たちが出会うすべての人の生活に、ご自分に倣って『思いやりをもって、沈められる」ように、求めたおられます」とし、 「自分たちの傷ついた人生の奥深くに沈められた十字架上の主を見上げ、私たちは神のなさり方を知ります。神は愛であり、愛は謙虚、高ぶることはありません。空から落ちてきて命をもたらす雨のようなのものです」と語られた。

 さらに教皇はこう問いかけられたー「私たちは、どのようにしたら、『立ち上がる』から『自分自身を沈める』へ、あるいは『威信』を誇る態度から『奉仕』の態度へ変わることができるのでしょうか」。そして、「自らを捧げることは重要ですが、すでに私たちが受けた『イエスに沈められた、洗礼』の力を活用する必要があります。洗礼の恵みは、自分自身の利益ではなく、イエスに付き従い、他の人たちに奉仕するように私たちを導く助けとなるのです」と説かれた。

 最後に教皇は、「私たちの受けた洗礼ーイエスに、イエスの生き方に、奉仕に沈められたー恵みを新にしてくれるように、聖霊に願いましょう」、そして、主と互いへの奉仕に「完全に沈められる」ように、私たちを助けてくださる謙遜で愛情深いマリアの模範に倣うことができますように」と祈られた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

このエントリーをはてなブックマークに追加
2021年10月17日