☩「私たちは何ゆえにイエスを追い求めるのか」教皇、年間第18主日正午の祈り ProgramsPodcast (2021.8.1 Vatican News staff writer) 教皇フランシスコは1日、サンピエトロ広場で行われた年間第18主日正午の祈りで、「物質的な必要性だけに関心を払うのでなく、何よりも神との関係を求め、深めるように」と会衆に説かれた。 教皇は祈りに先立つ説教で、この日のミサで読まれたヨハネ福音書の箇所ーパンの奇跡をなさったイエスの後を追ってきた群衆は、イエスがなさったことの意味を理解せず、依然としてパンで空腹を満たすことに関心を持ち続けるーを取り上げられた。 教皇は、この群衆のように「私たちも、心の狭さから、”偶像崇拝の誘惑”の危険に晒されています。自分が利用するため、その時の必要を満たすために、神を求めようとします」とされ、「では、私たちは、どうして主を求めるのでしょうか?」と問いかけられた。そして、さらに、「何が私たちが主を求める動機になっているのか、考えてください。私たちの信仰が、自分が必要な時に神を求め、必要が満たされたら神を忘れてしまうようなものなのか、よく考えてください」と会衆に求められた。 さらに、私たちが必要としていることを神に示すのは正しいことだが、重要なのは、「主が何よりも私たちと愛の関係の中で、共にいることを望まれていることを、私たちが理解し、主が私たちの祈りに、私たちの期待をはるかに超えて、応えてくださることを知ることと、私たちが知ることです。真の愛は、まったくの贈り物であり、見返りを期待しません。神と私たちの関係は、”打算の論理”を超えるものです」と強調された。 今日の福音書の箇所で、群衆はイエスに、「神の業を行なうためには、何をしたらよいでしょうか」(ヨハネ福音書6章28節)と尋ねる。教皇は、「ここで彼らが、教えを乞おうとしているのは、「目先の必要性だけを気にかける信仰から、神がお喜びになる信仰に、どうやって進むことができるか」とされた。 そして、イエスはこれに、「神がお遣わしになった者を信じる事、それが神の業である」(6章29節)と答えられたが、教皇は、イエスが意味されているのは、「イエスを私たちの生活に迎え入れ、イエスとの愛の物語を生きる」こと、と指摘。「イエスだけが私たちの信仰を清め、イエスとの『愛の関係』を強めることができます。私たちが受け取り、行うことの前に、愛するイエスがおられます」と説かれた。 さらに教皇は、これと同じ考え方が、私たちの人間関係や社会的関係にも当てはまる、とされ、「他の人々を自分の利益のために利用する恐れがあることに、私たちは注意する必要があります。社会において、私たちは、他の人々を単なる自分の利益の対象としてではなく、自分の関心の中心に置く必要があります」と強調。最後に、「イエスを命のパンとして進んで受け入れ、イエスとの友情をもとに、私たち互いを、こだわりなく、たくさん愛することを学びましょう。神との愛の最も美しい物語を生きられ、私たちがその恵みを受けるのを助けてくださることのできる聖母マリアの模範に倣いましょう」と呼びかけられた。 (翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二=聖書の引用部分の日本語訳は「聖書協会・共同訳」を使用) ツイート
(2021.8.1 Vatican News staff writer) 教皇フランシスコは1日、サンピエトロ広場で行われた年間第18主日正午の祈りで、「物質的な必要性だけに関心を払うのでなく、何よりも神との関係を求め、深めるように」と会衆に説かれた。 教皇は祈りに先立つ説教で、この日のミサで読まれたヨハネ福音書の箇所ーパンの奇跡をなさったイエスの後を追ってきた群衆は、イエスがなさったことの意味を理解せず、依然としてパンで空腹を満たすことに関心を持ち続けるーを取り上げられた。 教皇は、この群衆のように「私たちも、心の狭さから、”偶像崇拝の誘惑”の危険に晒されています。自分が利用するため、その時の必要を満たすために、神を求めようとします」とされ、「では、私たちは、どうして主を求めるのでしょうか?」と問いかけられた。そして、さらに、「何が私たちが主を求める動機になっているのか、考えてください。私たちの信仰が、自分が必要な時に神を求め、必要が満たされたら神を忘れてしまうようなものなのか、よく考えてください」と会衆に求められた。 さらに、私たちが必要としていることを神に示すのは正しいことだが、重要なのは、「主が何よりも私たちと愛の関係の中で、共にいることを望まれていることを、私たちが理解し、主が私たちの祈りに、私たちの期待をはるかに超えて、応えてくださることを知ることと、私たちが知ることです。真の愛は、まったくの贈り物であり、見返りを期待しません。神と私たちの関係は、”打算の論理”を超えるものです」と強調された。 今日の福音書の箇所で、群衆はイエスに、「神の業を行なうためには、何をしたらよいでしょうか」(ヨハネ福音書6章28節)と尋ねる。教皇は、「ここで彼らが、教えを乞おうとしているのは、「目先の必要性だけを気にかける信仰から、神がお喜びになる信仰に、どうやって進むことができるか」とされた。 そして、イエスはこれに、「神がお遣わしになった者を信じる事、それが神の業である」(6章29節)と答えられたが、教皇は、イエスが意味されているのは、「イエスを私たちの生活に迎え入れ、イエスとの愛の物語を生きる」こと、と指摘。「イエスだけが私たちの信仰を清め、イエスとの『愛の関係』を強めることができます。私たちが受け取り、行うことの前に、愛するイエスがおられます」と説かれた。 さらに教皇は、これと同じ考え方が、私たちの人間関係や社会的関係にも当てはまる、とされ、「他の人々を自分の利益のために利用する恐れがあることに、私たちは注意する必要があります。社会において、私たちは、他の人々を単なる自分の利益の対象としてではなく、自分の関心の中心に置く必要があります」と強調。最後に、「イエスを命のパンとして進んで受け入れ、イエスとの友情をもとに、私たち互いを、こだわりなく、たくさん愛することを学びましょう。神との愛の最も美しい物語を生きられ、私たちがその恵みを受けるのを助けてくださることのできる聖母マリアの模範に倣いましょう」と呼びかけられた。