☩「神の正義とは、深い憐れみと慈しみから御心そのもの」-「主の洗礼の主日」正午の祈りで

教皇フランシスコ 2023年1月8日(日)のお告げの祈り教皇フランシスコ 2023年1月8日(日)のお告げの祈り  (ANSA)

(2023.1.8 バチカン放送)

 教皇フランシスコは「主の洗礼」の祝日の8日、正午の祈りの説教で、この日のミサで読まれたマタイ福音書のイエスがヨルダン川のほとりでヨハネから洗礼を受ける場面(3章13-17節)を取り上げ、次のように語られた。

 教皇の説教の要旨は次のとおり。

***********

 「主の洗礼」を祝う今日、福音書は私たちに驚くべき光景を見せてくれます。ナザレ での隠れた生活から、イエスが初めて公の場に姿を現わされたのです。

 イエスはヨハネから洗礼を受けるために、ヨルダン川のほとりに来られました。そのイエスが罪人たちの間に混じっている姿を見て、私たちは驚き、自問します。「神の聖なる人、罪のない、神の御子イエスは、なぜこのような選択をされたのか」と。

 答えは、イエスのヨハネに向けた言葉の中にありますー「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」(マタイ福音書3章15節)。「正しいことをすべて行う」とは、何を意味しているのでしょうか。

 イエスは洗礼を受けることで、私たちに、神の正義を啓示されます。イエスは、それをこの世にもたらすためにやって来こられたのです。

 私たちはしばしば、正義について狭い考えを持つことがあります。「正義とは、過ちを犯した人がその報いを受け、そうして犯した過ちを償うことだ」と考えがちです。そうではありません。神の正義は、聖書が教えるように、ずっと大きなものです。

 神の正義は、「過ちを犯した人を罪に定めること」を最終目的とするのではなく、その人の「救いと再生、その人を義とすること」を目的としています。それは愛から、神の御心そのものである深い憐れみと慈しみから来る正義です。御父は、私たちが悪に押しつぶされ、罪と弱さに打ちひしがれているのを見て、憐みをもよおす方です。

 すなわち、神の正義とは、罰や懲らしめを振り撒くことではなく、使徒聖パウロが言うように( ローマの信徒への手紙3章22-31節参照)、ご自分の子らを、悪の罠から解放し、癒し、再び立ち上がらせ、義とされること、にあるのです。

 これによって、ヨルダン川のほとりでイエスが啓示された使命の意味を、理解することができるでしょう。イエスは神の正義を完成するために来られました。神の正義とは、罪人を救うことでした。ご自分の肩に世の罪を背負われ、私たちが溺れないように、奈落の底、死まで降りて来られたのです。

 イエスは、真の神の正義とは「救う慈しみ」「私たち人間が置かれた状況を分かち合い、寄り添う愛」「私たちの苦しみとの連帯」「私たちの闇の中に入り、光を再びもたらすこと」であると教えてくださいます。

 ベネディクト16世はこう強調しておられますー「神は私たちをお救いになろうと、自ら死の深みの底まで降りられました。すべての人、たとえ、もう空を見ることができないほど低いところまで落ちた人でも、神の御手を見出し、それにつかまり、闇から抜け出し、再び光を見ることができるようになるためでした。人は、光のために造られているからです」(2008年1月13日の説教)。

 私たち、イエスの弟子たちは、他者との関係、また教会や社会で、「人を良い人と悪い人に分け、裁き、罪に定める冷たさ」ではなく、「兄弟姉妹が立ち上がれるように、その傷や弱さを分かち合い、受け入れる慈しみ」をもって、正義を行うよう求められています。「分け隔てる」のではなく、「分かち合う」のです。

 私たちはイエスのように行わねばなりません。互いに分かち合い、重荷を背負い合い、慈しみをもって見つめ合い、助け合うのです。自分を振り返ってみましょう。「私は分裂させる人か、それとも、分かち合う人か」と。

 聖母マリアに祈りましょう。聖母は、私たちが再び命を受けるために私たちの弱さの中に入られるイエスを、お産みになりました。

(編集「カトリック・あい」)

このエントリーをはてなブックマークに追加
2023年1月9日