☩「ウクライナ・自衛のための武器供与は道徳的であり得る」「戦争を始めた国との対話は困難でも必要」教皇、機中会見で(VN)

 記者会見での一問一答は以下の通り。(Vatican Newsによる非公式英語訳から翻訳)

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Q: Zhanat Akhmetova=カザフスタンのテレビ局KHABAR=こんにちは、教皇様。カザフスタンにおいでいただき、ありがとうございました。今回のご訪問で、私たちカザフスタン人についてを含め、新たな発見はありましたか?

*「時が許せば、またカザフスタンでの世界宗教者会議に参加したい」

教皇:カザフスタン訪問は驚きでした。私はこれまで、お国を含む中央アジアについて、(注:ロシアの作曲家)ボロディンの音楽(交響詩「中央アジアの草原にて」)以外に、本当に何も知らなかったのです。ですから、中央アジアの国々の代表者たちを知ることは驚きでした。そしてまた、カザフスタンは本当に驚きでした、

 なぜなら私が予想していなかったことに出会ったからです。知的な手法でとても発展した国、都市であることを知りました。独立して30年で、ここまで発展したとは思ってもいませんでした。

 お国は、人口1900万人の、信じられないほど大きな国です。とても規律が行き届いていて、美しい。とても美しく、都市建築はよく均衡が取れ、よく配置されています。近代的な都市、「未来都市」と言ってもいいくらいです。とても印象的だったのは、産業、経済、物質的な面だけでなく、文化面でも発展したいという、人々の熱意が感じられたことでした。これは予想もしなかった驚きです。

 それと、私が参加した第7回世界伝統宗教代表者会議。これはとても重要な会議でした。その会議を主催したカザフスタンは、先見の明のある国であり、通常であれば無視されている人々を対話に引き込むことに貢献しました。宗教的価値を最初に捨てようとする”進歩的”な認識を強める世界にあって、それに抗する提案をする会議。この会議は、今回ですでに7回も開かれました。時が許せば、私は次回も参加したい。あなたがたカザフスタンの人たちは、自分の国、祖国を誇りにできます。

Q:Rudiger Kronthaler=ドイツ公共放送連盟(ARD)=平和のメッセージをありがとうございます。私たちのドイツには、80年前に起きた何百万人もの死に責任があります。平和について質問したいと思います、ドイツ国民は何百万人もの死に責任があるので、私たちは学校で、自分たちは決して武器を使うべきではない、決して暴力を振るうべきではない、と教えられています。そうした中で、武器使用の唯一の例外は自己防衛です。あなたは、現在のウクライナに武器は提供されるべきだと思いますか?

 

*「ウクライナ自衛のための武器提供は、条件を満たせば道徳的であり得る」

教皇:それは政治的な決定であり、多岐にわたる道徳の条件に従ってなされるなら、道徳的であり得るし、受け入れることができます。それ(武器の提供)がより多くの戦争を引き起こしたり、武器売買や、不要になった武器の処分を目的としたものであれば、不道徳になる可能性があります。

 動機は、この行為の道徳性とつながります。自分自身を守ることは合法であり、そればかりか国への愛の表現でもあります。自分を守らない人、何かを守らない人は、それ(自分の国)を愛さない。守る人は、それを愛します。

 ここであなたの質問に関連して、私がこれまでのスピーチの一つで言ったこと、「『正義の戦争』の概念について、もっと考えるべきだ」と言ったことに触れましょう。今日、誰もが平和について話しています。何年もの間、(第二次世界大戦が終わった後)70年の間、国連では平和について話され、平和について非常に多くの演説がなされました。しかし今、いくつの戦争が起きていますか?あなたが言われたウクライナとロシアの間で、アゼルバイジャンとアルメニアの間では”平和の仲介人”となったロシアが、こちらでは戦争を起こしています。.

 中東では、シリアで10年にわたる内戦が続いています。なぜ止められないのですか?どのような利害が絡んでいるのでしょうか?そして、アフリカでは、ソマリア、モザンビーク北部、エリトリア、エチオピアの一部…。アジアではミャンマー。ジプシーのようにあちこち行き来させられ、平和を見い出すことのできないロヒンギャの人たちがいます。私たちは世界大戦の最中にあるのです。

 私が子供の頃のお話をしましょう。1945年、9歳のある日のこと。ブエノスアイレス最大の新聞が声高に叫び続け、町中に響き渡っていたのが、急に静かになりました。「どうしたの?」と母が言いました。すると近所の人が来て、「戦争が終わったのよ!」と叫びました。そして、母さんとその人が、終戦の報に泣いて喜びました。女性たちは、どのような戦争よりも平和が素晴らしいことを知っていたので、平和が戻ってきた時、泣いて喜のだのです。今でもその時の情景が忘れられません。

 

*「私たちは、平和を泣いて喜ぶような教育を受けているか」

 翻って今日、私たちは平和を目の当たりにして泣いて喜ぶような教育を受けているでしょうか?すべてが変わりました。戦争を起こさなければ、あなたは役に立たない!そして武器売買のビジネス。これは暗殺者の商売です。ある統計の専門家が私に「世界の武器製造を1年間やめるだけで、飢餓問題はすべて解決できる」と言ったことがあります。- それが本当かどうか分かりませんが、武器の製造は、飢餓問題の解決に役立たない。武器を作らなければならないので、飢餓問題は解決できません。

 数年前のこと。イタリア中西部のジェノヴァの港に、武器を積んだ船が到着し、南スーダン近くのアフリカの港に向かう大型船にそれを積み替えようとしました。その作業を請け負うはずの港湾労働者はそれを断った。収入が減るのを承知で、「私たちは協力しない」と言ったのです。平和の意識を感じさせる出来事でした。

 

*「自衛権はある、だが戦争そのものは間違いだ」

 あなたはご自分の国について話されました。私が皆さんから学んだことの一つは、過去の戦争の過ちを悔い改め、赦しを請う能力です。そして、赦しを請うだけでなく、戦争の過ちを償うために行動する… 私たちが真似るべき模範です。言うまでもなく、戦争そのものは間違いです!そして今、私たちはこの空気を吸っている。戦争がなければ、命が保てないかのように。少々、とりとめもなくお話ししましたが、「正義の戦争」について私が言いたかったことはすべてお話ししました。ただし、自衛の権利はあります。必要なときだけ、それを使用してください。

 

Q: Sylwia Wysocka=ポーランド通信社(PAP)=あなたは、このようにおっしゃいました。「私たちは決して暴力を正当化することはできません」と。しかし今、ウクライナで起きていることはすべて、ロシアによる純粋な暴力、死と完全な破壊をもたらす行為です。私たちポーランド人は、ウクライナからの200万人の難民を抱え、戦争を非常に身近に感じています。この問題に”レッド・ライン(越えてはならない一線)”があるとお思いですか? 私たちはモスクワとの対話にオープンです。非常に多くの人々がこのことを理解するのに苦労しています。そして、教皇の次のご訪問先がキエフになるかどうかもお聞きしたいと思います。

 

*「戦争を始めた国、侵略者に対しても、対話を排除してはならない」

教皇:お答えしましょう。戦争を始めた国との対話の必要について理解するのはいつも難しいと思います。難しいことですが、その可能性を捨ててはなりません。私たちは対話の機会をすべての人に、すべての人に広げなければなりません!なぜなら、私たちが物事を変え、あるいは別の視点、別の視点、別の考慮すべき事項を提供できる可能性が、対話の中に常にあるからです。

 私は、戦争を始めた国であろうと、侵略者であろうと、いかなる大国との対話も排除しません。時には対話が怪しいと思われる時にも、行われなければならない。常に一歩先を行き、手を差し伸べる。そうでなければ、私たちは平和への唯一の合理的な扉を閉ざしてしまいます。

 時には対話を受け入れない人もいます。それでも、対話は常に行われなければならず、少なくとも、その機会は提供されなければならない。これは提供する人々にとって良いことです。彼らが呼吸するのを助けます。

 

Q: Loup Besmond de Senneville= LA CROIX= あなたが参加された世界伝統主教者会議で、価値観と倫理について多くの議論があり、一部の宗教指導者は、「道徳的劣化のために西欧の喪失が起きている」と指摘しました。これについてどう思われますか?西欧は滅びの危機に瀕しており、その価値の喪失に脅かされていると思いますか? 個人的には、安楽死について、人生の終わりについて、イタリアだけでなく、フランスやベルギーでも起きている議論に関心がありますが。

 

*「欧米は間違った道を歩んでいる、地中海諸国は”人類の墓場”」

教皇:欧米が、概して、最高水準の模範でなくなっているのは事実です。もはや”初聖体の時の子供たち”ではありません。欧米は間違った道を歩んできました。例えば、社会的不公正。社会正義について、少しばかり進んでいる国もありますが、私の大陸であるラテンアメリカも西欧です。地中海諸国も西欧ですが、今や、「欧州」ではなく、「人類」にとって最大の墓場になっています。

 欧米は、外からの人々を必要とする時に、喜んで迎え入れることを忘れることで、何を失ったと思いますか? 私たちが置かれている”人口動態の冬”を考えましょう。外からの人々を必要としているのです。スペインで、そして イタリアでも、”空っぽの村”が出てきており、そこには20人のお年寄りの女性しかいません。そのほかには誰もいないのです。

 よその人を歓迎し、共に歩み、発展し、一緒になる、という原則に移民を含む政策を、西欧諸国はなぜ作らないのでしょう?「いいえ」と言い続け、何もせずに放置しています。それは価値についての理解の欠如です。欧米がそのことを認識したとき、移民を受け入れる国になります。

 私の国アルゼンチンの人口は4500万人余りですが、先住民は 100万人弱で、多くの国民が移民のルーツを持っています。スペイン人、イタリア人、ドイツ人、スラブ系ポーランド人、スラブ系の人、小アジアの人、レバノン人… 混血し、そうした経験が私たちをとても助けてくれました。

 ラテンアメリカ諸国は政治的にうまくいっていませんが、西欧からの移民は知的で親しみやすい資質でも国に貢献しています。その価値も、(注:かつて移民を送り出す側だった)欧米諸国は真剣に受け止めるべきだと思います。

 

*「”人口動態の冬”を迎える中で、移民問題を放置できない}

 (移民の受け入れで腰が定まらない中で)”人口動態の冬”を迎えた私たちは、どこへ行くのでしょうか? 人口動態の面で、欧米は衰退しつつある。もう少しで”期限切れ”になります。”敗北”です…

 政治・経済的な面についても考えてみましょう。欧米では、過去に多くの素晴らしい仕事が行われてきました。それを担ったのは、(フランスの政治家)シューマン、(ドイツの政治家)アデナウアー、(イタリアの政治家)デ・ガスペリなど(欧州連合=EU=の父と呼ばれる)偉大な精神をもった政治家たちでした。現代の欧米の政治家にも素晴らしい人はいますが、社会を前進させることができずにいる。話し合い、互いに敬意をもって接する必要があります。そうしなければ、ポピュリズム(大衆迎合主義)に陥る危険がある。

 そのような”社会政治国家”で何が起きるか? ポピュリズムのメシアと称される者の登場です。私たちはポピュリズムがどのように生まれるかを見てきました。私は何度かギンツベルクの著作「Sindrome 1933」について語ったことがありますが、その本では、ドイツでワイマール共和制崩壊後に、どのようにしてポピュリズムが生まれたか、が書かれています。それは、人々の半分が強さを持たない中で、誰かがメシアの到来を約束する時です。

 私たち西欧人は、他の人々を助けるための最高の水準にはいないと思います。若干、退廃的でしょうか?そうかも知れませんが、私たちは欧州の価値観、”欧州連合の父”たちの価値観、偉大な者たちの価値観を取り戻さなければなりません。

 

Q:Loup Besmond de Senneville=安楽死についてのお考えは?

教皇:殺人は人間のすることではありません。それに尽きます。本気で人を殺せば、際限なく殺すことになる。殺戮は獣に任せましょう。

 

 

*「政治は最高の慈善の一つ。欧州は他地域の経験を学ぶ必要がある」

 

Q:Iacopo Scaramuzzi= LA REPUBBLICA=カザフスタン訪問中の演説で、あなたは価値観、宗教的価値観、そして民主主義の活気の間のつながりを何度も強調されました。私たちの欧州大陸に欠けているものは何だと思いますか?他地域の経験から何を学ぶべきでしょうか? 数日後にイタリアでは総選挙が行われ、新たな政権が誕生するでしょうが、新首相にお会いになった時、どのような注文をなさいますか?今のイタリアの優先事項は何でしょうか。懸念される問題、避けるべきリスクは何でしょう?

教皇:ご質問について、私はすでに今回の旅の間にお答えしてきたと思います。私はこれまでに、二人のイタリア大統領にお会いしました。いずれも素晴らしい方です。それ以外の政治家は知りません。一番最近の旅で、秘書の一人に「今世紀になって、イタリアではいくつの政権が立てられたか」と聞きました。「20」です。どうしてこれほどの政権交代があったのか。私には説明できないし、非難したり批判したりすることもしません。政権がそのように変わり続ければ、多くの疑問が投げかけられるでしょう。今日、偉大な政治家になることは、困難な道のりです。

 国の価値観、偉大な価値のために自分自身を線上に置き、(個人的な)利益、地位、利便性のために行動しない政治家… イタリアは、偉大な政治家、すぐれた能力で政治を実行する人を見つけねばなりません。

 政治は崇高な召命です。教皇の一人、ピオ12世か、聖パウロ六世か定かではありませんが、「政治は最高の慈善の形の一つ」と言われました。私たちは、政治家が、まったく役に立たない低レベルの政治ではなく、高い政治のレベルを維持するのを助けるために闘わなければならりません。そうでなければ、国家を貶め、貧困にしてしまいます。

 今日、欧州諸国の政治は、例えば、産業開発、環境保全、移民問題など”人口動態の冬”が影響を与える課題に取り組むべきです。政治が前に進むために、真剣に問題に取り組まねばなりません。私はイタリアの政治をよく理解しているわけではない。20年間で20もの政権ができたという数字は、少し奇妙に思えますが、誰もがタンゴを踊る独自の方法を持っています… 誰でも何らかの方法で踊ることができ、政治は何らかの形で踊られるのです。

 欧州は、他の地域の経験を学ぶ必要があります。それがプラスになることもあり、そうでない場合もあるかもしてませんが、他地域の経験に心を開いていなければならず、それはどの大陸でも同じです。

 

Q:Elise Allen= CRUX=昨日の世界伝統宗教者会議で、あなたは信教の自由の重要性について語られました。ご存じのとおり、この同じ日に中国の習近平主席が、このカザフスタンの首都に入りました。中国では、香港で陳日君・枢機卿の裁判が続いており、まさに「信教の自由」に大きな懸念がもたれています。この裁判は信教の自由の侵害だとお思いになりせんか?

 

 

*「陳枢機卿裁判のように中国を非民主的と感じることもあるが、忍耐と対話が必要」

教皇:中国を理解するには1世紀が必要ですが、私たちは1世紀も生きていけません。中国のメンタリティは豊かですが、少し病気になるとその豊かさを失う。間違いを犯す可能性があります。中国を理解するために、私たちは対話の道を選んだのであり、対話に開かれています。

 バチカンと中国には、二国間委員会があり、それはうまくいってはいるが、中国側のペースが遅いので、ゆっくりです。彼らは前進するのに、非常に長い時間をかけます。無限の忍耐の人々です。私たちには過去の経験ー中国を訪れ、学者として敬意を払われたイタリア人宣教師たちのことーがあり、今日も、その文化に価値をもたらすという理由で中国の大学から招待を受ける司祭や信徒が多くいます。

 中国人のメンタリティを理解するのは容易ではありませんが、敬意を払うべきであり、私はいつも敬意を払っています。そして、ここバチカンには、パロリン国務長官が議長を務める対話委員会があり、彼は現在、中国と中国との対話について最もよく理解している人物です。ゆっくりとしたプロセスですが、常に前に進んでいます。

 中国を非民主的な国と判断することに、私は同調しません。中国はとても複雑な国ですから… 確かに、私たちにとって非民主的に思われることがあります。それは本当です。香港の陳枢機卿が、裁判にかけられようとしています。彼は自分が感じていることを言う、そしてそれに限界が設けられている。(非民主的かどうか)判断するのが難しいからこそ、的確な判断をしたい。そういう思いがあります。対話の道筋を支援するように心がけています。

 そうして、対話の中で、教会についてだけでなく、他の分野についても多くのことを明確にします。例えば、中国の広大さ。地方の統治者はすべて様々です。中国の中に、異なった文化があります。中国は巨人です。中国を理解するのはとても大変なことです。でも、忍耐をなくしてはなりません。多くの忍耐が必要ですが、私たちは対話の道をとらねばなりません、私は予断を控えるようにしています… それでも、前に進みましょう。

Q:Elise Allen=習近平主席とはどうでしたか?

教皇:たしかにカザフスタンに来られましたが、そこで会うことはありませんでした。

Q:Maria Angeles Conde Mir= ROME REPORTS=世界伝統宗教者会議の宣言で、すべての指導者が「民族性や宗教のために迫害されている人々を保護するよう、政府や国際機関に訴えること」を強調しました。ニカラグアでは今、そのような迫害が起きています。8月21日の正午の祈りで、あなたはこの問題について話されましたが、世界で迫害されているカトリックの人々、特にニカラグアの人々のために、もっと何かできるのではないでしょうか。それと、今後の海外訪問ですが、延期されているアフリカ訪問を始めとする予定を教えていただきたいのですが。

 

*「ニカラグア、マザー・テレサの会のシスターたちの解放を望む」

教皇:ニカラグアに関しては、対話がされています。政府との協議がありました。だからといって、政府が行うすべてのことを認めたり、認めなかったりするわけではありません。対話を続け、問題を解決する必要があります。

 今、問題があります。中でも、マザー・テレサが創立した「神の愛の宣教者会」のシスターたちが解放されることを望みます。女性たちは善意の革命家ですが、福音から発している!誰とも戦わない。それどころか、私たちは皆、彼女たちを必要としているのです。これは理解が難しい意思表示です… でも、彼女たちが戻ってくるのを希望しています。

 対話が続きますように。対話を止めないでください。それと、理解できないことがあります。バチカンの大使を国境に送ることが、深刻な外交問題とされることです。その大使は善良な人物で、今は他の国の大使に任命されています。これらのことを理解するのは難しく、受け入れ難い。でも、ラテンアメリカでは様々なところで、そのような状況が起きています。

 

*「11月にバーレーン、来年2月に南スーダンを訪問したい」

 今後の海外旅行についてお答えするのは難しい。私の膝はまだ治っていません。難しいですが、次(11月に計画されているバーレーン訪問)は実現するつもりです。先日、英国国教会のウェルビー・カンタベリー大司教と会いました、来年2月に南スーダンに一緒に行く可能性について話が出ました。もし私が南スーダンに行くなら、コンゴにも行きます。私たちは努力しています。スコットランド国教会のトップ、ウェルビー大司教、そして私の3人が一緒に行く必要があります。先日、これについてZoomで会合を持ちました…

 

Q:Alexey Gotovskiy= EWTN=イスラム教徒が大半を占めるカザフスタンに住むカトリック教徒にとって、どのような福音宣教ができるのでしょうか? 実際にこの国を訪問されて、刺激を受けましたか?

 

*「”宗教的戦い”は、対話なしの、互いの知識の欠如から起きる」

教皇:刺激を受けたかどうか分かりませんが、今日ミサを捧げたカテドラルで、信徒たちが熱心に祈り、幸せな気持ちで、喜んでいるのを見て、とてもうれしかった。それがカザフスタンのカトリック教徒についての私の印象です。イスラム教徒との共生については、かなりの前進があり、それはカザフスタンに限りません。北アフリカ諸国、例えばモロッコでも、かなり順調に対話が進んでいます。

 世界伝統宗教者会議では、ある人たちが(注:会議の進め方を)批判して、私にこう言いましたー「これは扇動だ。相対主義を助長している」と。相対主義でも何でもありません!誰もが自分の意見を持ち、誰もがお互いの立場を尊重し、兄弟として対話をしたのです。対話がなければ、相手を無視するか、争うかの、どちらかになってしまう。兄弟として生きる方がいい。私たちには一つの共通点があるー皆、人間だということです。人間として、マナーを守って生きましょうーあなたはどう考え、私はどう考えるでしょうか?同意しましょう、話しましょう、お互いを知りましょう。

 誤解された「宗教的」戦いは、知識の欠如のために何度も起こります。そして、これは相対主義ではない。他の人が自分の信仰について話すなら、私も自分の信仰を話します。私が自分の信仰を話すのは、他の人がそれに耳を傾け、私も彼らの信仰に耳を傾けるからです。

 私はカザフスタンのように独立間もない若い国が、気候問題など非常に多くの課題を抱えながら、世界伝統宗教者会議のような集まりを主催されたことに、とても大きな感銘を受けました。ユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒、東洋の宗教を信じる人たちとの世界的な集まり。会議のテーブルでは、誰もが互いに敬意を持って語り、お互いに耳を傾けました。

 この会議は、あなたの国がなさった良いことの1つです。世界の「周辺部」で 、このような会議を主催したのです。これが私の印象です。それから都市は、一流の建築美にあふれています。そして政府関係者が、そして上院議長が、忙しい公務の中で、とても気を遣ってくれたことにも、感銘しました。彼はあなたが知っているに違いない若い歌手に私を紹介する時間を作ってくれました。文化に開かれた心を持つこの若者。期待していなかったことでした。

 

Q:Rudolf Gehrig= EWTN=ドイツの教会のようなヨーロッパの多くの教会は、信者の深刻な喪失感に苦しんでいます。あなたはこの傾向についてどの程度、心配していますか、そしてそれにどのような対応をお考えですか?

教皇:そのご指摘は、部分的には真実であり、部分的には相対的なことです。世俗化の心理、相対主義の心理が問題となっているのは事実です。本当のことです。そこでまず第一にしなければならないことは、言動を信仰を一致させることです。言動が信仰と一致しない司教や司祭がいれば、若者たちは、その匂いをかぎ取ります。 そして「さようなら」をしてしまいます!教会が、どこの国、どこのセクターであろうと、お金のことや布教地の開拓や計画について主に考え、司牧活動を軽視するなら、人々を惹きつけることはありません。

 

*ドイツの教会の問題…「”羊飼い”が羊の匂いをかぎ分けられないなら、教会は前に進まない」

 私が2年前にドイツの信徒たちに手紙を書いた時、それを本にして皆が読むようにした司祭がいました。教皇が何を考えているかを皆が知るべきだ、と彼は言いました。羊飼いは前に進まねばまりませんが、彼らが羊の匂いをかぎ分ける感覚を失い、羊が羊飼いの匂いをかぎ分ける感覚を失ったら、前に進むことはできません。

 ドイツだけでなく、一般的にすべての人について、私は話していますー 教会を、どのように刷新するか、司牧ケアをどのようにもっと現代に合う形にするか。考えるのはいいことですが、その成否は、いつも羊飼いの手の中にあります。

 司牧ケアが、司牧の”科学者”の手の中にあり、彼がこちらで意見を述べ、あちらで何をすべきか言っても(前に進むことはない)。イエスは、政治指導者ではなく、司牧者たちと教会を作りました。彼は教会を、十二使徒など無知な人たちと作り、ある人は他の人よりもさらに無知… そうして教会は続いてきました。なぜか?それは、羊飼いと、羊の群れの嗅覚によるものです。

 これは、ある場所、ある地域で危機があるときに、目にする最大の関係です… 私は自問しますー羊飼いは、羊の群れと接触しているか、群れの近くにいるか? 群れには羊飼いがいますか。問題は羊飼いです。これについては、羊飼いに関する聖アウグスティヌスの注釈を読むことをお勧めします。1時間で読めますが、羊飼いのために書かれた最も賢明な言葉の1つであり、それによって羊飼いについて認識することができます。司牧の現代化について語っていないし、私たちは現代に合わせた方法を取らねばなりません。しかし、司牧者の心が欠けているなら、肝心の司牧は、何一つとして機能しないのです。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

 

 

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2022年9月16日