☩「主は私たちの振る舞いの量ではなく質、意図の純粋さ」に着目される

(2018.11.11 バチカン放送)

 教皇フランシスコは11日、日曜正午の祈りの前になさった説教で、この日の福音朗読箇所、マルコ福音書の「イエスが律法学者を非難する一方、献金する貧しい寡婦の姿を示すエピソード」(12章38-44節)を取り上げられた。

 律法学者と寡婦が対比的に描かれるこの個所について、教皇は「律法学者は裕福で影響力のある人々を、寡婦は最も貧しく弱い立場の人々を代表しています」されたうえで、ここでイエスが律法学者を問題としているのは「自分の優位をひけらかし、虚栄を張り、重要でない人や、経済的に恵まれない人々を見下す、その態度なのです」と指摘。

 そして、「イエスは、律法学者が宗教的立場を利用して弱い人々を食い物にする偽善をあからさまにし、対照的な模範として貧しい寡婦の姿を示すことで、弟子たちの心に、ご自身の教えをはっきりと刻もうとされました」と語られ、「自分の権利を守ってくれる夫を亡くし、高利貸しなどの犠牲になりやすい、社会でも弱い取るに足らない立場」にある寡婦が、賽銭箱に、自分が持つすべて-銅貨2枚を入れるという「この謙虚で大きな宗教的心を持つ自己犠牲の態度が、イエスの目に留まることになったのです」と話された。

 こうしたイエスの教えは「私たちの人生における本質を思い出させ、神との絆を具体的な形で日常的に強めることを助けてくれる」とし、主の天秤は「私たちの秤とは異なります。主は人とその態度を、異なる方法で量られ、量ではなく質、その意図の純粋さ」に着目されるが、これは「私たちが祈りを通し神に捧げる態度、愛徳の業を通して隣人に捧げる行為が、形式主義や損得計算を超えた、無償の表現でなくてはならないことを意味しています」と説かれた。

 イエスがあの貧しい、寛大な寡婦を、キリスト教的生活の模範として示したのはこのような理由からであり、「私たちはこの寡婦の名を知らなくとも、神の御心にかなったその心を知っています」とされ、「私たちが神と兄弟たちに、自分の何かではなく、自分そのものを謙虚に寛大に捧げることができますように」と、ご自身を神にすべて捧げた貧しいおとめマリアに、その支えを祈られた。

(編集「カトリック・あい」)

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2018年11月13日