☩「信仰の歩みは”散歩”ではない、時としてとても辛い歩みとなる」聖ペトロ、聖パウロ使徒の祭日・正午の祈りで

Pope Francis greets faithful at Angelus addressPope Francis greets faithful at Angelus address  (Vatican Media)

 聖ペテロ、聖パウロの祭日の29日、教皇フランシスコは正午の祈りの説教で、使徒たちの信仰の闘いと不完全さを振り返り、「イエスに近づこうと悪戦苦闘する私たちも、このローマの守護聖人二人に共感することができます」と語られた。

 以下、「バチカン放送」による教皇の説教の概要。

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 使徒聖ペトロと聖パウロの祭日のミサの福音は、イエスの問いに対するペトロの答えを伝えています。「あなたはメシア、生ける神の子です」 (マタイ福音書16章16節)。

 これは聖ペトロの、人間的な理解からではなく、父なる神ご自身から受けたインスピレーションによる、一つの信仰告白です( 同17節参照)。

 ペトロと呼ばれる、漁師シモンの信仰の歩みの始まりです。この言葉が完全に成熟するには、様々な経験を経た長い時間がまだ必要でした。使徒聖ペトロと聖パウロにも、私たち一人ひとりと同様に、信仰の修練期がありました。私たちも皆、イエスをキリスト、救い主、生ける神の子だと信じます。しかし、完全に福音に沿った生き方ができるようになるには、長い時間と、多くの忍耐、そして謙遜が必要なのです。

 使徒聖ペトロは、このことをすぐに自身で経験します。ペトロがイエスに信仰告白した直後に、イエスがご自身の受難と死を予告すると、ペトロは、それはメシアの在り方と相容れないと拒否します。師であるイエスに、「そんなことがあってはなりません」と叱責すらします。このようなペトロに、イエスは強い口調で「サタン、引き下がれ。あなたは私の邪魔をする者だ。神のことを思わず、人間のことを思っている」(同23節)と言われます。

 こうしたことは、私たちにも起きないでしょうか。私たちは信仰宣言を繰り返します。そうするのは信仰心からです。しかし、生活で辛い試練に出会うと、すべてが崩れ去るように思われ、「こんなはずではなかった。もっと平坦で楽な道もあったのではないか」と主に文句を言いかねません。

 信じる者の心の葛藤を、私たちも生きています。イエスを信じ、イエスに信頼します。だが、同時に師イエスに従うことを困難と感じ、それとは異なる道を探したくなります。聖ペトロも、この内的ドラマを体験しました。ペトロの信仰も時間と成熟を要しました。彼は、最初、主の十字架の思いを恐れました。しかし、生涯の最後には、十字架にかかり、殉教することで、主イエスを証ししたのです。

 多くの疑問や迷いを経験しながら、聖パウロも時間をかけて信仰の成熟に到りました。彼は復活されたキリストにダマスコ途上で出会い、迫害者からキリスト教徒となりました。これも、使徒自身が「身のとげ」と呼ぶ、多くの困難や失敗、絶え間ない苦しみを通して歩まねばならなかった、その信仰の歩みの始まりだったのです (コリントの信徒への手紙2・12章7節参照)。

 信仰の歩みは、決して散歩のようなものではありません。それは骨の折れる、時にはとても、つらい歩みでもあります。キリスト者となった聖パウロも、多くの試練を通して、徐々に完全なキリスト者とならねばなりませんでした。

 自問しましょう。「イエス・キリストを神の子として信仰宣言する時、いつも、まだたくさん学ぶことがある」と自覚しているだろうか、それとも、「もうすべて分かっている」と自負しているだろうか。困難や試練の中で、気を落としたり、嘆いたりしていないか、それとも、それを主への信頼を強める機会としているか。

 聖パウロは、その弟子テモテに「主は私をあらゆる悪から助け出し、天の御国へと救い入れてくださる」(テモテへの手紙2・4章18節)と書いています。

 使徒の女王、聖母マリアよ、信仰の歩みにおいて日ごと成長しながら、使徒たちに倣うことをお教えください。

 (翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

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2022年6月29日