◎連続講話「十戒」⑥「キリストが私たちの名を負われたように、神の御名を負うことに価値がある」

 (2018.8.22 バチカン放送)教皇フランシスコは22日、バチカンでの水曜恒例の一般謁見のカテケーシス(教会の教えの解説)で、「十戒」の掟の一つ、「あなたの神、主の御名をみだりに唱えてはならない」(出エジプト記20章7節)について考察された。

 まず教皇は、この掟が「神の御名を冒涜せず、不適当にその御名を用いてはならない」という勧告、と説明され、「『みだりに』とは、『無用に、やたらに』という意味で、その空虚さは、偽善や、形式主義、虚言に通じるものです」と語られた。

 また「唱える」とは、ヘブライ語とギリシャ語では「自分に負わせる、引き受ける」という表現が使われているとし、「神の御名を自分に負わせる」とは、「神の存在を受け入れ、神との強い結びつきの中に入るということ」とされた。

 そして「神の御名を自分が負う際に、偽善的であったり、形式的であったりしてよいのでしょうか」と問いかけられ、「この掟は、神との関係が偽物ではなく、自分のすべてを委ねる完全な信頼関係であるように促されているのです」と強調された。

 教皇はさらに、神との緊密な信頼関係を生きた人々として、聖人たちの存在を示し、彼らの真摯な、信仰に根付いた生き方を思い起こされ、「偽善を交えずに神の御名を背負い、『主の祈り』にある『御名が聖とされますように』という祈りを、心から唱えるキリスト者が増えれば、教会の告げる言葉はもっと受け入れられ、もっと信頼に足るものになるでしょう」と述べ、「私たちが具体的な生活を通して、神の御名を表すことができるなら、洗礼の素晴らしさ、聖体の偉大な恵みを目に見えるものとすることができます」と話された。

 続けて、「キリストの十字架以来、誰一人、自分自身をさげすむ必要はありません。それは、私たち一人ひとりの名前をキリストが背負ってくださるからです」とし、「神の御名を自らに負うことには価値があります。神は私たちの罪にも関わらず、私たちの名を最後まで引き受け、私たちの心にご自身の愛を置いてくださるからなのです」と力を込めて語られた。

(「カトリック・あい」編集)

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2018年8月23日 | カテゴリー :