☩「イエスの光を受けて、新たな歩みを始めよう」-「主の公現」の日に

(2019.1.6 バチカン放送)

 教皇フランシスコは6日朝、バチカンの聖ペトロ大聖堂で「主の公現」を祝うミサを捧げられた後、正午に聖ペトロ広場に集った信者たちとともに「お告げの祈り」を唱えられ、イエスの「公現」を「『光』によって象徴されるもの」として観想された。

 教皇はまず、「起きよ、光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に昇ったのだから」と「イザヤ書」(60章1節)にあるように、旧約の預言書の中でこの光は「約束」であり、「苛酷な捕囚と虐政を体験した直後のイスラエルの民に、イザヤが投げかけるこの招きは、驚くべきものに思われます」と語られた。

 そして、「今日、この招きは、イエスの降誕を祝った私たちにも響き、ベツレヘムから届く光を私たちも受け入れるように、と励ましています…私たちも、この出来事の表面的なしるしだけに留まることなく、ここから再び出発し、私たちの人間としての、またキリスト者としての、新しい歩みを始めねばなりません」とされた。

 預言者イザヤが告げた「光」とは、福音の中では「現存し、公にされた存在」、すなわち「ダビデの町、ベツレヘムに生まれ、すべての人に救いをもたらすために来られたイエスのこと」だが、マタイ福音書は「キリストと出会う可能性を持った人々の様々な反応を記しています」と指摘。ヘロデは権力を失うことを恐れたために、律法学者たちや民の長たちは自らの確信を超えるものを見る力がなかったために、幼子に会うことを拒んだ。

 彼らの反応に対して、「伝統的なユダヤ教信仰からは遠い世界にあるすべての民を代表する東方博士たちは、メシアの真理を求め、星を追い、危険をも顧みず、長い旅に出たのでした」「博士たちは、『人となられた神』という歴史上最も偉大で驚くべき知らせに心を開くことのできた人たちであると同時に、主を求めて辛抱強く歩み、イエスに贈り物を差し出す寛大さを持った人たちだったのです」と述べられた。

 教皇は、東方の博士たちが幼子と出会った後、「別の道を通って自分たちの国に帰って行った」(マタイ福音書2章12節)が、「彼らは『謙遜で貧しい王』の神秘を胸に抱いて国に帰り、キリストにおいて神から与えられた救いを皆に告げたことでしょう」と話された。

 そして、(注:博士たちのように)恐れのために心を閉ざすことなく、この温和で目立たない光に勇気をもって心を開くなら、私たちもまた、東方の博士たちのように『喜びにあふれ』(参照:マタイ福音書2章10節)、そして、喜びを自分たちだけのものにすることはないでしょう」と締めくくられた。

(編集「カトリック・あい」)

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2019年1月7日