☩「イエスの『エッファタ』に癒され、苦しむ人、助けを求める人に心を開こう」

(2018.9.9 バチカン放送)教皇フランシスコは9日、バチカンでの正午の祈りの際の説教で、利己的な「怖れ」から解放され、苦しむ人々に心を開く必要を説かれた。

 教皇は説教で、この日の福音の朗読箇所、イエスが耳が聞こえず舌の回らない人を癒すエピソード(マルコ7章31-37節)を取り上げた。この個所で、ガリラヤ湖に来られたイエスのもとに、人々が耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるように、と願ったが、教皇は「イエスがこの人だけを群衆の中から連れ出された」ことに注目。

 「イエスがいつも目立たないように行動し、人々を驚かせるのを望まないのは、人気や成功を求めるのではなく、人々の善だけを望んでおられるから」とし、イエスのこの態度は「良いことは人々の前で見せびらかすのではなく、静かに、沈黙のうちに行うべきことを教えてくれます」と語られた。

 そして、イエスは、この人を離れた所に連れ出すと、指を彼の両耳に差し入れ、唾をつけてその舌に触れられたが、教皇は、イエスのこの行為に「神の御子の受肉の神秘」を観想され、「神の御子は人となられ、人間の現実の中に入られました。それゆえ、一人の人間の痛ましい状況を理解され、癒しの行為をもって全ての人も癒されるのです」と説かれた。

 続いてイエスは、この奇跡が御父とご自身の一致ゆえに可能であることを分からせるため、天を仰いで、深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」すなわち「開け」と言われると、その人はただちに癒され、耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになったが、「彼にとってこの癒しは、他人と世界に対して自分を開くことでした」と説明された。

 教皇は福音書のこのエピソードには「病気と肉体的な苦しみの癒し」と「怖れの癒し」の二つの癒しが示されている、と指摘。「怖れ」は、「私たちに病人や、苦しむ人、障害のある人から距離を置かせ、病気や苦しみ、困難にある人々に対し、私たちの耳と口を閉ざさせてしまいます」と述べ、「病人や苦しむ人を『問題』として捉えるのではなく、弱い立場の人々に連帯を示す『機会』と捉えるべきなのです」と強調された。

 さらに、教皇は「私たちも、耳を開き、言葉を取り戻すイエスの『エッファタ』に癒され、利己主義から抜け出し、苦しむ人や助けを求める人たちに心を開いていきましょう」と呼びかけられた。

(「カトリック・あい」が編集しました)

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2018年9月10日