☩「イエスと共にいれば、いつも新しく始めることができる」待降節第二主日・正午の祈りで

(2022.12.4 Vatican News staff writer)

 教皇フランシスコは4日、待降節第二主日の正午の祈りの説教で、「私たちの弱さと失敗を認め、主の赦しを求めることにおいて、私たちの人生に欠かすことのできない謙虚さ」を強調され、「イエスと共にいれば、私たちはいつでも神に立ち返り、神の無限の愛を進んで受け入れることで新しく始られます」と語られた。

 説教でまず教皇は、この日のミサで読まれたマタイ福音書の「悔い改めよ。天の国は近づいた」(3章2節)と言って、全ての人を回心へと導こうとした洗礼者ヨハネの役割に注目され、「彼は厳格で急進的な信仰者。神に立ち返るために愛の叫びをもって人々を回心するように呼び掛けたのです」と説かれた。

 

 

*洗礼者ヨハネの厳しい言葉は、「子を思う父」の叫び

 教皇は、「ヨハネの”厳しさ”を考えると、少しばかり相手に恐怖を植え付けさえする、厳しい人物だ、と考えるかもしれません。でもそれは”厳しさ”ではなく、偽善者に出会った時の反応の強さだったのです」とされ、「偽善で知られるファリサイ派やサドカイ派の人々が洗礼を受けに彼の所に来た時、ヨハネは彼らを批判しました。彼らは、『良いと思われるものを全て兼ね備えており、悔い改める必要はない』と考えていたからです」と指摘。

 続けて、「このような思い込みと偽善的な考えでは、洗礼の恵みの瞬間と新しい人生を始める機会を受け入れることができません。そこでヨハネは、彼らに、『悔い改めにふさわしい実を結ぶように。我々の父はアブラハムだ、となどと思ってもみるな』(マタイ福音書3章8、9節)と忠告しました。これは愛の叫び、息子が身を滅ぼそうとするのを見て、『人生を無駄にするな!』と言う父親の叫びのようなものです」と語られた。

 そして教皇は、「偽善は、最も大きな危険をもたらします。なぜなら、最も神聖な現実さえも台無しにする可能性があるからです。そしてこれが、洗礼者ヨハネと彼に続いて来られたイエスが、偽善者―謙虚さのない、あるいは自分自身の罪深さと弱さの感覚がなく、それを他人事のように見ている者ーに対して厳しく対応された理由でした」とされ、「神を迎えるのに重要なのは、難度の高い技巧ではありません。謙虚さです。そのために、”台座”から降りて、”悔い改めの水”に浸かる必要があるのです」と説かれた。

 

 

*待降節は、「謙虚さの道」で主と兄弟姉妹に出あう恵みの時

 また教皇は、「私たち自身の行動と態度についても振り返ってみること、福音書で語られているファリサイ派の人に少し似ている場合があるかどうか、考えてみることが必要です。『自分は他の人よりも優れている』『自分はすべてをうまく治められている』『神や兄弟姉妹をいつも必要とはしていない』などと思うことがありますか?」と問いかけられた。

 そして「待降節は、自分の仮面を外し、謙虚な人々と足並みをそろえ、『自分だけで何でもできる』という思い込みから解放され、罪を告白し、神の赦しを求め、いただき、自分が不快に思わせた人たちから許しをもらえるよう願う、恵みの時です」と強調。

 さらに、「神に赦しを願う時、私たちは新しい人生を始めます。それには、『謙虚さ』の道しかありません。謙虚さが、私たちを赦し、自分の弱さ、優越感、または偽善から清めることができるのです。私たちは皆、罪人であること、に気づきます」とされ、 「救い主としてのイエスは、貧しさ、悲惨さ、失敗を抱え、立ち直り、赦され、救われる必要がある私たちのために、来てくださいます」と説かれた。

 最後に教皇は、「一つだけ覚えておきましょう。イエスと一緒にいれば、いつでもやり直すことができます。いつでも、です! イエスは私たちを待っておられ、私たちを諦められることはありません」と強調。そして「待降節は、私たちが主に立ち返るための特別な恵みの時を提供してくれる」ことを確認され、聖母マリアに、「私たちが、『謙虚さの道』で、主と私たちの兄弟姉妹に出会えるよう助けてくださいますように」と祈られた。

*苦しみの中にあるウクライナの人々のために、聖母マリアに平和への祈りを

 正午の祈り続いて、教皇は、今週8日の無原罪の聖マリアの祝日を思い起され、「ひどい苦しみを味わい続けているウクライナの人々のために、聖マリアに平和への祈りを委ねましょう」と呼びかけられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

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2022年12月4日