☩「イエスが『あなたがたに平和があるように』と繰り返されたのは」神の慈しみの主日に

(2022.4.24 Vatican News  Devin Watkins)

   復活節第二主日・神の慈しみの主日の24日、バチカンでは新型コロナウイルスの大感染発生以来となる聖ペトロ大聖堂でのミサが捧げられ、教皇フランシスコは説教で、イエスが復活された後、弟子たちの前に現れ、「あなたがたに平和があるように」と言われたことに注目された。

 十字架上の死と復活の後、(注:復活された週の初めの夕方、そして八日に弟子たちの前に現れた)イエスが、「あなたがたに平和があるように」と三度繰り返される(ヨハネ福音書20章19₋26節参照)。

Pope Francis greets a family after Mass
Pope Francis greets a family after Mass

*イエスは自分を捨てた弟子たちを赦し”新しい人”にされた

 教皇は、「キリスト教徒は、この神の慈しみの言葉が、自分たちに喜びを与え、あらゆる困難に出会うとき、慰めをもたらすことに、気付きます」とされ、「イエスが復活された日の夕に初めてこの言葉を口にされた時、弟子たちも喜びに満たされました」と語られた。

 復活されたイエスが、彼らの前に現れるまでの3日間、恐怖に身を寄せて過ごし、自分たちが師を捨て、悲惨な目に遭われている時に自分の師であることさえも否定したという挫折感に打ちひしがれていた。

 このような状態の中で、イエスがおいでになったのだから、「弟子たちは、イエスと顔を合わせた時、自分たちのことを恥じるべきでした」とされた教皇は、「それでも、イエスは『あなたがたに平和があるように』と挨拶をおくられ、彼らの注意を自分たちからイエスに向けさせたのです」として、次のように語られた。

 「キリストは、弟子たちがご自分にしたことを咎めず、これまで通りの思いやりを示されました。そして、彼らに元気を取り戻させ、失っていた安らぎで心を一杯にし、本来なら受けるに値しない『赦し』によって清められた”新しい人”になさったのです」と強調された。

 そして、「イエスによってもたらされた喜びは、私たちに失敗を切り抜けさせ、神から慈しみと、赦される喜びを受け入れる力となります… イエスは、私たちに屈辱を与えず、元気を取り戻す喜びくださいます」と説かれた。

*そして、私たちに赦しを与える

 また教皇は、イエスは、二度目に「あなたがたに平和があるように」と言われたのに続いて、「父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす」(ヨハネ20章21節)と語られたことに注目。「神から赦しを受けた後、弟子たちは(注:このイエスの言葉によって)、自分たちが受けた”慈しみ”を他の人々に分ける”仲介者”にされるのです」とされ次のように語られた。

 「今日、そして日々、教会では、慈しみ深い聴罪司祭の謙虚さの徳を通して、同じように赦しが受けられねばなりません。その司祭は、自分自身を力を持つ者としてではなく、自分が最初に受けた赦しを他の人たちに注ぐ、慈しみの媒介者であることを自覚しています」。

 さらに、教皇は「イエスは教会全体を、慈しみを皆に分ける共同体、すべての人類のための和解のしるしであり道具にされました… ですから、私たち一人一人が、人生のあらゆる状況において、周りの人たちに神の慈しみを広めていかねばならなりません」と説かれた。

 

*”信じない者”から”信じる者”になる

 イエスが三度目に「あなたがたに平和があるように」と弟子たちに挨拶されるのは、トマスがイエスの復活に対する疑いを表明した後だ。弟子たちの前に再び現れたイエスは彼を咎めず、ご自分の脇腹に手を入れるよう言われる(20章25-27節)。

 教皇は「イエスは、トマスに厳しくされません。トマスは、イエスの示された思いやりに感動し、”信じない者”から”信じる者”となり、『私の主、私の神よ』と、最も簡潔で最も素晴らしい信仰告白をします」とされ、「私たち信徒は皆、このトマスの話、不信心を関わりがあります。そして、イエスは私たちのところにも、慈しみの心温まるしるしをもっておいでになり、ご自分の傷をお見せになることで、私たちを慰めてくださるのです」と強調。

*そして兄弟姉妹の傷を気遣わせる

 そして、また、「神の慈しみを得た経験は、私たちの兄弟姉妹が受けた傷を見るようにさせます… 私たちは、自分が耐え難い痛みと苦しみの状態を経験していると考えていますが、ある時、突然、周りの人たちがもっと悪い状態を耐え忍んでいることに気づくことがあります」とされ、 「隣りにいる人の傷を気遣い、憐れみの香油を注ぐとき、疲れを癒す希望が、私たちの内に生まれてくるのが分かります」と語られた。

 説教の最後に教皇は、世界のすべてのキリスト教徒に対して、私たちの周りの苦しんでいる人たちに助けの手を差し伸べ、彼らの声に耳を傾けることで、神の慈しみの日を、自分のものにするように、促されたー「人生の試練に耐えているすべての人々の視点から、主は、慈しみをもって私たちを見つめ、もう一度、私たちに呼びかけられます-『あなたがたに平和があるように!』と」。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二=聖書の引用箇所の日本語訳は「聖書協会・共同訳」を使用)

 

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2022年4月25日