◎講話「洗礼の秘跡」①ただ一度の洗礼が私たちの全人生を照らす

教皇フランシスコ、4月11日、バチカンでの一般謁見 – AP

(2018.4.11 バチカン放送)教皇フランシスコが11日、バチカンで水曜恒例の一般謁見を行われ、謁見中のカテケーシス(教会の教えの解説)で、復活祭後にふさわしいテーマとして「洗礼の秘跡」について話された。

 教皇は、「復活の主日」から「聖霊降臨の主日」まで50日間続く「復活節」は、「キリストご自身から由来するキリスト者の生活について考えるのに、またとない時期」であるとし、キリスト者としての自覚を新たにするために、キリスト教生活への入口となる秘跡「洗礼の秘跡」について考察された。

 そしてまず、キリストの復活は「その豊かな知らせをもって、洗礼を通して私たちに及び、私たちをキリストご自身に似た者として変容させる」ものであり、洗礼を受けた者は「キリストに属する者、キリストこそ、彼らの命の主なのです」と述べられた。

 さらに、洗礼は「キリスト者の生活全体の基礎」(『カトリック教会のカテキズム』1213項)であり、それは「最初の秘跡、私たちの中に主キリストがお住まいになり、キリストの神秘にわたしたちを浸すことを可能とするための扉」と説明された。

 また、「洗礼を行なう」というギリシャ語(バブティゼイン)は、「沈める」「浸す」という意味(同1214項)を持ち、「水に人を浸す行為は、ある状態から別の状態への推移や、新たな始まりのための清めなどを表すものとして、様々な宗教の典礼にも見られる」が、キリスト者にとって洗礼で体を水に浸すことは「罪からの赦しを得て、神の光によって再び輝くために、キリストの中に魂を沈めること」と話された。

 続いて、洗礼は、聖霊の力において「私たちを主の死と復活の中に沈め、罪に支配された古い人間を、イエスにおいて再び創造された、新しい人間として生まれさせます」と述べ、「あなたがたは行って、すべての民を私の弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授けなさい」(マタイ福音書28章19節)という、復活されたイエスが弟子たちに向けた派遣の言葉を思い起こしつつ、「キリストを信じる者は、洗礼を通して三位一体の命の中に浸される」と語られた。

 さらに、洗礼を通して神のもとに新たに生まれることについて、「誰でも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。肉から生まれたものは肉である。霊から生まれたものは霊である」(ヨハネ福音書3章5-6節)と、イエスがニコデモに説明した言葉を引用し、人を新たに造りかえる洗礼について、「神は、御自分の憐れみによって、私たちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです」(テトスへの手紙3章5節)という、使徒聖パウロの言葉を示された。

 洗礼とは「新たな命において歩むために、再び生まれたことをはっきりと表すしるし」であるとし、「あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。私たちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活されたように、私たちも新しい命に生きるためなのです」(ローマ の信徒への手紙6章3-4節)という、聖パウロの言葉を観想された。

 教皇は、人は洗礼によってキリストに浸されることで、「キリストの肢体となり、教会の一員となって、その使命に参与する者となる」(『カトリック教会のカテキズム』1213項)ことを想起させ、洗礼盤からほとばしる生命力、キリストとの繋がりを「私はぶどうの木、あなたがたはその枝である。人が私につながっており、私もその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」(ヨハネ福音書15章5節)というイエスの言葉の中に見つめられた。

 最後に、洗礼の力について「洗礼は、キリストが私たちの中に生きるとともに、私たちがキリストに一致して生き、それぞれが置かれた場所・能力をもって、世界を変容させるために、教会の中で協力することを可能にしてくれます」とし、「ただ一度の洗礼は、私たちの全人生を照らし、天上のエルサレムに至るまで、私たちの歩みを導いてくれるのです」と語って、キリスト者にとっての洗礼の秘跡の重要性を改めて強調された。

(バチカン放送日本語版をもとに「カトリック・あい」が編集しました)

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