☩「『私はここにいます』は生き方のキーワード」‐無原罪の聖母の大祭日に

(2018.12.9 カトリック・あい)

 教皇フランシスコは8日、無原罪の聖母の大祭日にあたって、正午のお告げの祈りの後の説教で次のようにお話しになった。(試訳・Sr.岡立子=バチカンにて)

「愛する兄弟姉妹たち、今日の神のみ言葉は、わたしたちに、二者択一の自由(機会)を示しています。

 第一朗読の中で、[世の]始まりに、神に「ノー」と言う人間がいます。そして福音朗読の中で、お告げの時、神に「はい」と言うマリアがいます。どちらの朗読の中でも、人間を捜しているのは神です。

 しかし、最初の場合、神は、罪の後のアダムのところに行き、彼に聞きます:「お前はどこにいるのかDove sei?」(創世記3章9節)。そして彼は答えます:「わたしは隠れていますMi sono nascosto 10節)。

 それに反して、二番目の場合、神は、罪の無いマリアのところに行き、彼女は答えます:「ここにいます、わたしは主のはしためですEcco la serva del Signore」(ルカ1 38)。

 「わたしはここにいますEccomi」は、「わたしは隠れていますmi sono nascosto」の反対です。「わたしはここにいます」は、神に対して開き、罪は閉ざし、孤立し、自分自身だけに留まります。

 「わたしはここにいますEccomi」は、生き方(人生)のキーワード(鍵となる言葉)です。それは、水平方向の生き方―自分自身と、自分の必要を真ん中に置く生き方-から、神に向かって投げ出されたslanciata、垂直方向の生き方への移行を印します。

 「わたしはここにいますEccomi」は、主に対して準備が出来ていることesseredisponibiliです。それは、利己主義のための治療、いつも何かが欠けている、不満のある生き方への解毒剤です。

 「わたしはここにいますEccomi」は、罪の老化に対抗する薬、内的に若く留まるためのセラピー(療法)です。

 「わたしはここにいますEccomi」は、神は、わたし自身よりもずっと大切だと信じることですEccomi è credere che Dio conta più del mio io。それは、神に賭けること、神の驚きに従順(素直)であることです。

 ですから、「わたしはここにいますEccomi」は、わたしたちが神に差し出すことが出来る、最も大きな賛美です。一日の始めを、このように、「主よ、わたしはここにいます」で始めませんか?

 毎朝、「主よ、わたしはここにいます。今日、わたしの中で、あなたのみ心(望み)が行われますように」と言うのは、すばらしいことです。わたしたちはそれを、これから「お告げ」の祈りの中で言います。でも、すでに今、一緒にそれを繰り返しましょう:「主よ、わたしはここにいます。今日、わたしの中で、あなたのみ心(望み)が行われますように!」

 マリアは続けます:「あなたのお言葉通り、この身に成りますようにAvvengaper me secondo la tua parola」。

 マリアは、「わたしの思い通りに成りますように」とは言わず、「あなたの思い通りに」と言います。マリアは、神に限界を置きません。「わたしを神に少し捧げ、その後、解放され、したいことをしよう」とは、考えません。違います。マリアは、気の向く時に、思い出したように、主を愛するのではありません。徹底的に神に信頼して生きます。それが、人生(生き方)の秘密です。すべてにおいて神に信頼する人には、すべてが出来ます。

 けれど、愛する兄弟姉妹たち、主は、わたしたちがアダムのように、「恐ろしくなり、隠れています」と答える時、苦しみます。神はお父さんです。どんな父親よりも優しい(愛情深い)父であり、子どもたちの信頼を望んで(切望して)います。

 それに対して、わたしたちは、どんなにしばしば、神を疑うでしょうか!わたしたちは、神が、わたしたちに何かの試練を送り、わたしたちから自由を奪い、わたしたちを見捨てることが出来ると考えます。

 しかし、それは、大きなごまかし(錯覚)です、それは原初の誘惑、悪魔の誘惑です:神への不信を忍びこませること。

 マリアは、彼女の「わたしはここにいますeccomi」をもって、この原初の誘惑に打ち勝ちます。そして今日、わたしたちは、罪無く生まれ、生き、つねに神に従順(素直)で透明な(裏表のない)trasparente聖母の美しさを見つめます。

 これらすべてのことは、マリアにとって人生が簡単だったという意味ではありません。違います。神と共にいることは、問題を魔法のように解決することではありません。

 今日の福音の結びは、それを思い起こしています:「天使は彼女から離れ去ったL’angelo si allontanò da lei 38節)。離れ去った:それは強い動詞です。天使は、おとめマリアを、難しい状況の中に一人きりで残します。

 マリアは、特別な方法で神の母となるだろうことを知っていました-天使がそれを言いました-。しかし、天使は、それを他の人々には説明せず、マリアにだけ説明しました。

 そして、問題はすぐに始まりました。考えてみましょう:律法に沿わない状況、聖ヨセフの苦悩、ひっくり返された人生計画、人々が何と言うだろうか…。

 しかし、マリアは、さまざまな問題の前で、神に信頼を置きました。彼女は天使から取り残されました。しかし、自分と共に、自分の中に、神が留まっていることを信じました。そして、信頼しました。神に信頼しました。マリアは、主と共にいるなら、たとえ予期せぬ方法であっても、すべてが良い方向に行くことを確信していました。

 これこそ、知恵ある態度です:さまざまな問題に依存しながら生きるのではなく-一つの問題が終われば、次の問題を考えるでしょう-、神に信頼し、日々、神に自分を委ねながら生きること:「わたしはここにいます!」。

「わたしはここにいますEccomi!」は、言葉です。「わたしはここにいますEccomi!」は祈りです。わたしたちは、無原罪の聖マリアに、このように生きる恵みを願いましょう。

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2018年12月9日