◎連続講話「十戒」⑤「『金の子牛』ではわずかな安心感しか得られない」

(2018.8.8 バチカン放送)教皇フランシスコは8日、水曜恒例の一般謁見のカテケーシス(教会の教えの解説)で、先週再開された「十戒」をテーマに、最初の掟「あなたには、私をおいてほかに神があってはならない」(出エジプト記20章3節)の考察を続けられた。

 今回は、まず、「出エジプト記」の「金の子牛」のエピソード(同32章1‐8節)に触れて、偶像崇拝の背景や様相を見つめられた。民が「金の子牛」の鋳像を造った背景として「モーセが神から掟を授かるために山に登って行ったまま、なかなか降りて来ず、人々は荒れ野で長く待たされていたこと」を挙げ、「荒れ野」とは不安定と不確かさに支配された場所、つまり、「不安で一切の保証がない状態に置かれた人間の生活のイメージです」と話された。

 そして、信頼する指導者、モーセの下山が遅れていたことが、「荒れ野に置かれた人々の偶像崇拝につながった」とされ、モーセの消息が分からない人々は、目に見える神を望み、「私たちに先立って進む神々を造ってください」とモーセの兄アロンに言ったが、民のこのような態度について、「不安定な状態から逃れるために、自作の宗教を求め、神が目に見えないなら、自分たちで思い通りの神を創作しようとする人間の本性を表すもの」、「偶像は、自ら作り出したものを崇拝しながら、現実の中心に自分自身を置こうとするための一つの口実です」と指摘された。

 アロンは人々の願いに抗することができず、「金の子牛」の鋳像を造ったが、教皇は「金の子牛」は、古代オリエントの影響下で、豊穣や豊かさ、活力や強さを意味するだけでなく、何よりも金であることから「繁栄や、成功、権力、富などを象徴するもの」、すなわち、「自由の幻想を与えるすべての欲望のシンボルであり、実際には自由の代わりに、人を隷属させるものだったのです」と述べられた。

 だが、人々が「金の子牛」を造らせた一番の原因は「神に信頼し、神の中に安全を求め、神に心の奥底にある真の願いを託すことができなかったことにあります」と強調され、「神を第一にしないなら、人は簡単に偶像崇拝に陥り、そこでにわずかな安心感を得るだけです」と話された。

 さらに、「豊かであったのに、私たちのために貧しくなられた」(コリントの信徒への手紙2・8章9節参照)を引用して、「イエス・キリストの神を受け入れる時、人は自分の弱さは人生の不幸ではなく、真に強いお方に自分を開くための条件であることを理解するのです」とされ、「真の神を唯一の主として受け入れることで、人は自由になり、自分の弱さを認め、心の中の偶像を拒否できる」と語られた。

 最後に、「私たちキリスト者は、十字架につけられたキリストを見つめ、その中に真の神の御顔と、愛の栄光の啓示を見出します」「キリストにおいて、私たちの弱さは災いではなく、御父との出会いの場所、天から与えられる新しい力の源となるのです」と説かれた。

(編集「カトリック・あい」)

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2018年8月9日 | カテゴリー :