◎連続講話「十戒」②「世が求めるのは『戒律主義者』ではない、『子の心を持ったキリスト者』だ」

教皇フランシスコ、6月20日、バチカンでの一般謁見

(2018.6.20 バチカン放送)教皇フランシスコが20日、バチカンで水曜恒例の一般謁見を行われ、謁見中、先週から始められた「十戒」をテーマとするカテケーシス(教会の教えの解説)で、掟を与える神と、掟を受け取る人間との関係を考察された。

 まず、「聖書では、掟は独立した存在ではなく、一つの関わりにおいて存在するもの。その関わりとは、神と神の民との契約の関係です」とされたうえで、出エジプト記の「神はすべての言葉を告げられた」(20章1節)という箇所を取り上げ、「ここでなぜ『すべての掟』ではなく、『すべての言葉』と記されているのでしょうか」と問いかけられた。

 そして「ユダヤ教の伝統では、『十戒』は『十の言葉』と呼ばれています」として、「掟・命令」と「言葉」との違いを問い、「前者が『対話を必要としない』のに対し、後者は『対話的な関係に不可欠なもの』なのです」と述べられた。

 また、「言葉」の重要性を示す上で、父なる神は「言葉を通して創造の業」を行われたこと、御子イエスは「人となられた御言葉」であること、などを挙げられた。

 さらに、「創世記」で、男と女が誘惑にそそのかされて、「神から食べてはいけない」と言われた木の果実を食べてしまったエピソードを思い起こされ、「『それを食べるな』と神が言われたのは、神が人間に与えた最初の規則だった、と言えます」と指摘「神のように善悪を知るものになる」という木の実を食べることを神が禁じたのは、「独裁者の押しつけではなく、人間を自己破壊から守るための、父親が小さな子に接するような、神の配慮でした。それにもかかわらず、蛇にだまされた男女は、神の愛の言葉を、『神の嫉妬と独占欲による命令』 と解釈し、その実を食べることになってしまったのです」と説明された。

 そして、「神は、『私に何かを押し付けようとされている』のか、それとも『私を大切に心にかけてくださっているのか』-人はこの分かれ道に立たされています」とされ、それは「戒律は『単なる掟』なのか『私をいたわる言葉』なのか。神は『主人』なのか『父』なのか-という問いでもあるのです」と話された。

 最後に、「聖霊は子たちの霊であり、イエスの霊です。奴隷たちの霊であるなら、掟を抑圧としてしか受け取らざるを得ないでしょう。それがもたらす結果は、義務と権利だけで出来た生活、あるいは激しい拒絶反応となります」と説かれ、「キリスト教のすべては、『文字で書かれた掟』から、『命を与える霊』への移行(参照:コリントの信徒への手紙Ⅱ・3章6-17節)です。イエスは父の御言葉であり、父の裁きではありません。十戒は私たちを解放する御父の言葉、解放に向けての歩みです。世が求めているのは、戒律主義者ではありません。子の心を持ったキリスト者たちなのです」と訴えられた。

(「カトリック・あい」編集)

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2018年6月21日 | カテゴリー :