◎講話「洗礼の秘跡」⑤「水に浸され、消えない霊印を受け、新しい命に生きる」

教皇フランシスコ、5月9日、バチカンでの一般謁見 – REUTERS

(2018.5.9 バチカン放送)

 教皇フランシスコは9日、バチカンで水曜恒例の一般謁見を行われ、復活祭後から続けている「洗礼の秘跡」をテーマにしたカテケーシスで、「洗礼の儀式の頂点―洗礼水を通して志願者が洗礼を授かる場面」を考察された。

 洗礼式の一連の流れの中で厳密な意味での「洗礼」の時、司祭は「父と子と聖霊のみ名によって」志願者の頭に三度水を注ぎ(もしくは志願者の全身を三度水に浸し)、洗礼を授ける。教皇は、「『洗礼を行う』(ギリシャ語のバプティゼイン)という言葉がもつ『沈める・浸す』という意味の通り、この儀式によって、新受洗者はキリストの過ぎ越しの神秘の中に浸されます」と語られた(参考:「カトリック教会のカテキズム」1214項、1239項 )。

 そして、その行為の意味を「あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けた私たちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。私たちは洗礼によってキリストとともに葬られ、その死にあずかるものとなりました。それはキリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためなのです」(ローマの信徒への手紙6章3-4節)という聖パウロの言葉を使って説明された。

 また、洗礼盤は「キリストとともに過ぎ越す場所」とされ、「そこでは、『古い人は脱ぎ捨てられ』(エフェソの信徒への手紙4章22節)、新しく創造され、『古いものは過ぎ去り、新しいもの』(コリントの信徒への手紙2・5章17節)が生じます」と話された。エルサレムの聖チリロが新受洗者に説いた「その時、あなたがたは同時に死に、また生まれたのです。同じ癒しの波があなたがたにとって墓となり、また母となったのです」という言葉を紹介し、「『墓』にも『母の胎』にも譬えられる洗礼盤のイメージは、洗礼時の単純な行為を通して、いかに偉大なことがなされたかを物語っています」と話された。

 「私たちの両親が我々をこの世のいのちに生んだのなら、教会は、私たちを洗礼において永遠のいのちに再び生み、私たちは『御子イエスにおいて神の子となった』(参照:ローマの信徒への手紙8章15節、 ガラテアの信徒への手紙4章5-7節)のです」と強調、「水と聖霊から新しく生まれた私たち一人ひとりに対しても、天の御父は、限りない愛をもって『これは私の愛する子』(参照:マタイ福音書3章17節)という声を響かせ、私たちの全人生の歩みに寄り添い続けてくださいます」と語られた。

 さらに、洗礼とは「消えない霊印」であり、「たとえ罪によって洗礼が救いの実を結ばないようなことがあっても、この霊印はいかなる罪によっても消されることはない」(カトリック教会のカテキズム 1272)ため、「洗礼は一回限りのもので、繰り返すことはできません」と話され、「洗礼は聖霊の働きによって受けた人を清め、聖化し、義とし、キリストにおいて皆一つの体 (参照:コリントの信徒への手紙1・6章11節、 12章13節)となります」とし、洗礼によって受洗者が「キリストの祭司職、預言職、王職」にあずかることは、「新受洗者の頭への聖香油の塗布に表されています」と指摘された。

 最後に教皇は「キリスト者の召命とは、聖なる教会において、キリストに一致して生き、その同じ奉献に参与し、同じ使命を行うことで、この世に、永遠に続く実をもたらすこと」と話された。

 (バチカン放送日本語版をもとに「カトリック・あい」が編集)

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