◎教皇連続講話・主の祈り⑥祈りで繰り返される「私たち」が意味するものは

(2019.2.13 バチカン放送) 教皇フランシスコは13日の水曜恒例の一般謁見で、アブダビ訪問などで一時中断していた「主の祈り」をめぐるカテケーシスを再開され、この祈りで繰り返される「私たち」という言葉に注目、「私たちと皆の御父」というテーマで話された。

 この講話で教皇はまず、「イエスのように祈るためには、偽善的な祈りに陥らないように」と注意。人に見られるために広場に立って祈ることをせず(マタイ福音書6章5節参照)、「祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め」、神に向かって「父よ」と呼びかけながら祈るように、というイエスの教えを示された。

 そして、「祈り」について、「イエスは偽善を望まれません。真の祈りとは、良心においてひそかになされるもの。その心は外からは分からず、神だけがご存じです」「祈りとは、自分と神の場であり、神は偽善を赦されず、裸の心をご覧になります。神を前に偽りや虚飾は役に立ちません」「神との対話の根底にあるのは、沈黙の対話。愛する二人が交わす眼差しのように、神と人とが交わす眼差し、それが祈りなのです」と語られた。

 この一方で教皇は「キリスト者の祈りは、神との親密さだけに閉じこもり、世界を扉の外に締め出すものであってはなりません」とされ、人々や、様々な状況、問題を、祈りの中にもたらす必要を指摘された。

 さらに、「この祈りで驚かされるのは、一人称単数の『私』いう言葉が、全く見当たらないこと」とされ、具体的に次のように説明された。

 「祈りの前半で、イエスは『(あなたの)御名が聖とされますように』『(あなたの)御国が来ますように』『(あなたの)御心が天に行われるとおり、地にも行われますように』と、御父に呼びかけ、祈りの後半には『私たちの日ごとの糧を今日も お与えください』『私たちの罪を赦しください。私たちも人を赦します』『私たちを誘惑に陥らせず、悪からお救いください』と、一人称複数の「私たち」が繰り返されます。このように、この祈りには「私」という言葉がなく、「『あなた(御父)』と『私たち』の対話があるのです」。

 では、なぜ神との対話には、個人主義のための『スペース』が無いのか、と問われた教皇は、「自分の問題だけを世界で唯一の問題のようにひけらかす祈りはなく、神への祈りを自分たちの共同体のためだけの祈りとすることはできません。『私たち』は共に祈る民なのです」とその答えを説明された。

 教皇はここで、かつてご自分がある刑務所付司祭と交わした対話を回想。「『私』に対する反義語は何だと思いますか」という司祭の質問に、「それは『あなた』でしょう」と答えると、司祭から「それが戦争の始まりです。『私』の反義語は『私たち』です。平和のあるところには、皆が共にあるのです」と教えられたことを紹介された。

 そして、「キリスト者は、祈りの中で自分の周りに生きる全ての人々の困難を思い起こし、神の御前でその日に出会った人々の様々な苦しみを語る必要があります」とされ、「もし多くの人の苦しみや貧しい人たちの涙に無関心でいるならば、その人の心は『石』です」「『同情を感じる』は、福音における一つのキーワード的な動詞です」と語られた。

 さらに教皇は「自分が祈る時、近くや遠くにいる人の叫びに心を開いているでしょうか。それとも祈りを『自分を安心させるための一種の麻酔』のように考えているでしょうか。私たちは自分自身に問う必要があります」と話され、また「神を求めないように思われる人々に対しても、彼らのために祈るようイエスは招いています」「御父は全ての人を愛されます。自分の気に入った人にだけよくしようとする私たちと異なり、全ての人に対して善い方である神から、私たちは学ばねばなりません」と説かれた。

(編集「カトリック・あい」)

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2019年2月14日