◎教皇連続講話「使徒言行録」⑪キリストはどのようにしてサウロを回心させたのか

 教皇フラPope Francis' General Audience: English summaryンシスコは9日の一般謁見中のカテケーシスで「使徒言行録」についての講話をお続けになり、今回は9章の「サウロの回心」を取り上げ、神がどのようにして、キリスト教徒を迫害していたサウロを回心させ、私たちが「聖パウロ」と呼ぶ恐れを知らない説教師に変えられたのか、について語られた。

(2019.10.9 バチカン放送)

 初期のサウロは、ステファノの殺害に賛成し、「教会を荒らす」者として、また回心後は「諸国の民に福音を告げるための神に選ばれた道具」として描かれるようになる。サウロは大祭司の許可を得て、キリスト教徒たちを見つけ、縛り上げて、連行しようとしていた。「主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込み」(9章1節)、主の律法に奉仕しようとした。

 教皇はこの箇所について、「このようなサウロの中にあったものは『生の息吹』ではなく、『死を漂わせる何か』でした… サウロは自分の政治的・宗教的アイデンティティーを絶対化し、自分と考え方が違う者を受け入れない『一徹な性格の若者』として描かれています」と指摘。

 「サウロは、真の戦いの相手は『血肉』ではなく、『支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊』(エフェソの信徒への手紙6章12節)、すなわち『人』ではなく、『人の行動に影響を与える悪』と戦うことを、キリストとの出会いによって回心し、教えるようになったのです」と説かれた。

 サウロは当初、キリスト教共同体を根こそぎにしようと考えていたが、旅の途中で、主が彼の心に触れ、ご自分に向けて彼を回心させられた。この「サウロのダマスコ途上の回心」は、「使徒言行録」で3回も語られている (9章3-19節、22章3-21節、26章4-23節)が、神がご自身を示される際に特有の「光」と「声」を通して、復活の主はサウロに現れ、「サウル、サウル、なぜ、私を迫害するのか」(9章4節)と尋ねることで、『教会のメンバーを攻撃することは、キリストご自身を攻撃することだ』ということを教えた、とされた。

 また、イエスの声は、サウロに「立ち上がって町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが告げられる」(9章6節)と語られ、サウロは立ち上がったものの、何も見えなくなっていたが、このサウロの姿について教皇は、「キリストのまばゆい光が彼の目を見えなくすることで、強い、権威をもっていたはずのサウロが『人の助けが必要な弱い存在である自分』を体験することになりました、と語られた。

 サウロと復活の主の直接の出会いが、彼個人の「死から命への『過ぎ越し』」を体験させ、彼はこれまでの栄光を「塵あくた」「損失」と見なすようになり(フィリピの信徒への手紙3章7-8節参照)、「キリストとキリストにおける命」こそ、真の得るべきもの、と考えるようになった、とし、「サウロが受けた洗礼は、私たちが受けた洗礼と同じ様に、新しい命の開始を示し、彼の歩みは、神と自分自身と人々に対する新しい眼差しをもち、敵と見なしていた人々は、キリストにおける兄弟となったのです」と強調された。

(編集「カトリック・あい」)

 

このエントリーをはてなブックマークに追加
2019年10月9日