◎教皇連続講話「使徒的熱意について」③「キリストに従う人々にとって、毎日が恵みの時」

 

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

(2023.1.25 バチカン放送)教皇の講話の要旨は次のとおり。

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 「預言者イザヤの巻物が手渡されので、それを開いて、こう書いてある箇所を見つけられた。『主の霊が私に臨んだ。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主が私に油を注がれたからである。主が私を遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、打ちひしがれている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである』。…イエスは巻物を巻き、…『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』と話し始められた」(ルカ福音書4章17-21)

 先週、私たちは福音の告知の模範であるイエスと、常に他者に向けられたその牧者の心を考察しました。今日は福音の告知の師としてのイエスを見つめましょう。そして、イエスがナザレの会堂で説教したときのエピソードから導きを得ましょう。

 イエスはナザレの会堂でイザヤ書の一節(参照 61章1-2節)を朗読され、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(ルカ福音書4章21節)という一言で皆を驚かせました。イエスにとって、このイザヤ書の一節には、ご自分についての本質が含まれている、ということです。では、それはどのようなものでしょうか。私たちはここに5つの本質的要素を見ることができる。

 最初の要素は、「喜び」です。イエスは言われます。「主の霊が私に臨んだ。貧しい人に福音を告げ知らせるために…」(ルカ福音書4章18節)。「福音」とは、すなわち、「喜ばしい知らせ」です。イエスについて語るとき、喜びなしでは語れません。なぜなら、信仰は分かち合うべき「素晴らしい愛の物語」だからです。

 「イエスを証しする」とは、イエスの名において他者のために何かをすること。イエスから受けた恵みの素晴らしさは、どのような言葉をもっても言い尽くせません。福音ー良き知らせーは、喜びの知らせです。喜びが欠けるとき、それは福音とは言えません。悲しいキリスト者は非常に素晴らしいことを話せても、伝えることに喜びがなければ、すべては無駄になります。

 2つ目の要素は「解放」である。イエスはご自身のことを「捕らわれている人に解放を告げるために」(参照 同上)遣わされた、と言われます。それはすなわち、神を告げ知らせる者は、改宗主義をとらない、ということです。神を伝える者は、他者に圧力をかけず、むしろその重荷を軽くし、罪の意識ではなく、平和をもたらす者でなくてはなりません。イエスに従うことには、当然犠牲が要る。しかし、キリストを証しする者は、歩みの辛さよりも、目的地の美しさを物語っています。

 3つ目の要素は「光」です。イエスが遣わされたのは「目の見えない人に視力の回復を告げるため」(参照 同上)である、という。驚くべきことに、キリスト以前には、聖書において目の見えない人の癒しは現れません。それはメシアと共に現れる約束されたしるし、であったためです。

 イエスの癒しは、物理的な視力の回復だけでなく、人生を新たに見つめるための光をもたらすものでした。イエスの与える光とは何でしょう。それは「父子関係」の光です。イエスは御父の愛する子であり、イエスと一緒に私たちも、自分が抱える過ちや欠点にもかかわらず、神から永遠に愛される子となりました。これによって、人生は、虚無に向かって進む先の見えないものでも、運命や健康やお金に左右されるものでもなく、私たちを慈しまれる御父の愛によるものとなったのです。この光を他の人と分かち合うことは、どれほど素晴らしいことでしょう。

 4つ目の要素は「癒し」です。イエスは「打ちひしがれている人を自由に」するために遣わされた(参照 同上)。「打ちひしがれている人」とは、病気や、苦労、心の重荷、罪の意識、過ち、悪癖、罪など、何かに押しつぶされている人である。私たちを押しつぶすものの中でも、特に、人の力では癒すことができないもの、それは罪です。「良き知らせ」とは、イエスによってこの”古い病”を打ち負かすことができる、ということです。

 イエスは私たちを罪から「常に、無償で」癒してくださいます。イエスは「疲れた者、重荷を負う者」は誰でもご自分のもとに来るようにと招いておられます(マタイ福音書11章28節参照)。誰かのイエスとの出会いを助けることは、その人を心の医者に連れていくこと。イエスを信じる人は、他者に、神の赦しの力の体験をもたらすことができます。

 聖書には、負債の重荷から解放される年、恵みの年である、ヨベルの年についての記述がある。実際、イエスは「主の恵みの年を告げるため」(参照 同上)に遣わされたと言われます。これは宣言された聖年のことではなく、キリストによって常に驚きと共に与えられる、人生を新しくする恵みのことです。イエスを告げることは、常に「恵みに対する驚き」をもたらすものでなくてはなりません。なぜなら、私たちが偉大なことをなしとげるのではなく、主の恵みが私たちを通して思いがけないことを、成し遂げるからです。

 私たちが福音を、喜びと、解放、光、癒し、驚きをもって告げることができるよう、イエスが助けてくださいますように。

 最後に、この喜ばしい知らせが、特に「貧しい人」に向けられていることに注目したいと思います。貧しい人々はイエスが特に心にかける人々である。貧しい人々を私たちも心に留めるとともに、自らが、恵みを、イエスを、必要とする者であることを自覚し、主をお迎えするために「心を清貧」にすることを忘れてはなりません。

(編集「カトリック・あい」=聖書の引用の日本語訳は「聖書協会・共同訳」に改めました)

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2023年1月25日