◎教皇連続講話「ガラテヤの信徒への手紙」⑦「パウロはなぜ、『愚かなガラテヤ人たちよ』と嘆いたのか」

(2021.9.1  Vatican News staff writer)

   教皇フランシスコは1日、水曜恒例の一般謁見で、使徒パウロの「ガラテヤの信徒への手紙」についての講話を続けられ、手紙の中でパウロが、ガラテヤの信徒たちに「キリストへの新しい信仰から離れていこうとしている」(ガラテヤの信徒への手紙1・1章6節以降参照)と注意を与えられた場面を取り上げ、「私たちもまた、どのように信仰を生きているかを振り返り、十字架につけられ復活されたキリストへの私たちの愛を、日々の生活の中心にしっかりと据えるようにと、求められているのです」と説かれた。

手紙の中でパウロはどのようにしてガラテヤにおける最初のキリスト教徒たちに、新しい信仰からどこで離れようとしたのか、進路をたださないなら自分たちが経験した恵みを無にしてしまうという危険をどうやって冒すのか、をよく考えるように強く求める。

 教皇は「パウロが、彼らの振る舞いを指して『愚かなガラテヤの人たち』(3章1節)という厳しい言葉を、どうして使ったのでしょう」と問いかけ、「それは、彼らが強い熱意をもって受け入れたキリストへの信仰を失う危険を冒しているからです」とされ、「それでパウロは、彼らに、最初に信仰を宣言し、新たな、予期しない新しい信仰の自由を得る可能性を示した時の記憶に訴えたのです」と語られた。

 

*救いの源であるキリストの愛

 そして教皇は、パウロがガラテヤの信徒たちに説いた言葉が、「イエスの死と復活」、そしてそこから私たちが受けた恵みに表わされた「神の愛」に焦点を当てていることを思い起こされ、「パウロにとって、ガラテヤの信徒たちの良心を揺さぶるのが、重要でした。パウロの意図は、救いの源として私たちが日々の生活の中心に置くべき「十字架につけられ復活されたキリストの愛」を見落とし、ひたすら”教え”を守ることで”偽信心の罠”に陥らないようにすることです」と指摘。

 また教皇は「ガラテヤの信徒たちはパウロの言葉を理解しました。それは、彼らの間で告げ知らされた慈しみなどの神の賜物を通して、『聖霊の新鮮さの果実』である聖霊の働きを経験したからでした。神は彼らに信仰をもたらし、聖霊は、彼らの経験の仲介役となりました」とする一方で、「ガラテヤの信徒たちは、そうした賜物や聖霊の働きを背景に押しやり、自分たちの作品を主役と見なす、パウロが『愚かだ』と指摘した行為に出たのでした」と語られた。

*私たちの生活の中心にあるキリストの愛

 講話に締めくくりに、教皇は、「私たちの信仰がどこにあるのか、そして私たちがその信仰をどのように生きているのかについても、振り返ってみる必要があります。キリストの愛が私たちの生活の中心、私たちの救いへの道であり続けることを確実にするために、です」とされ、「私たちは、外見ではなく、ほんの一時、私たちを惹きつけた後で空虚にしてしまうことではなく、かけがえのない宝、キリストの新しさがもつ美しさを、守り続けねばなりません。私たちが背を向けようとしても、神は賜物を私たちに授け続けてくださいます… 私たちを捨てようとはされず、慈悲深い愛の中で私たちと共におられる、そのことによって、私たちは勇気付けられるのです」と強調された。

(翻訳・編集「カトリック・あい」)

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2021年9月1日