◎教皇連続講話「祈りの神秘」⑦モーセにならい、主に「執り成し」を願おう

(2020.6.17 バチカン放送)教皇フランシスコ 2020年6月17日の一般謁見

 教皇フランシスコは17日、水曜恒例の一般謁見中の「祈りの神秘」をテーマにしたカテケーシス(教会の教えの解説)で、聖書に描かれたモーセを中心に語られた。カテケーシスは以下の通り。

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親愛なる兄弟姉妹の皆さん

 私たちの祈りをめぐる一連の考察の中で、神は「安易に祈る者」と絆をもつことを、決して愛されなかったと気づきます。あのモーセでさえ、召し出しの最初の日から「頼りない」仲介者でした。

 神がモーセを召し出された時、彼は人間的には「落後者」でした。旧約聖書の「出エジプト記」は、彼をミディアンの地における逃亡者として描いています。

 モーセは若い時、同胞のヘブライ人に憐みを抱き、虐げられた人々を守る側にもつきました。しかし、たとえ良かれと思ってしたことでも、彼の手から正義はあふれず、暴力を生み出したことに気づきます。こうして、彼の栄光の夢ははかなく壊れました。モーセはもう将来を約束された官吏ではなく、チャンスを逃した者であり、今は自分の所有でもない羊の群れを飼っている身分でした。

 まさにこのミデアンの荒れ野の沈黙の中で、神は燃え上がる柴の間からモーセに声をかけられました。「『私はあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』。モーセは顔を隠した。神を見ることを恐れたからである」(出エジプト記3章6節)。

 神はモーセに話しかけ、再びイスラエルの民の世話をするように、と求めます。モーセは神に対し、恐れと抵抗を示します。自分はこの使命に向いていない、神の名を知らない、イスラエルの人々は信じないだろう、自分は雄弁ではない等々、多くの理由を挙げ、異議を唱えました。

 モーセの口にしばしば上ってくる言葉は、神に向けるあらゆる祈りにあるように、それは「なぜ?」という問いでした。なぜ、私を遣わされるのか?なぜあなたはこの民を解放しようとするのか?

 「モーセ五書」には、神がモーセの信頼の欠如を面と向かって非難され、それゆえに彼を約束の地に導き入れることを拒む、劇的なくだりがあります(参照:民数記20章12節)。この恐れの気持ち、しばしば揺れる心を持ったモーセは、どのように祈ることができたでしょうか。モーセは私たちと同じ人間のように見えます。同様のことが私たちにも起きます。私たちに疑念がある時、どうやって祈ることができるでしょうか。

 私たちは、モーセの強さよりも、このような弱さのために、心を打たれるのです。神の掟を民に伝える任務を負った者、神の祭礼の基礎を築いた者、崇高な神秘の仲介者。モーセは、特に民が誘惑と罪にさらされている時も、彼らとの連帯の固い絆を保ち続けました。モーセは常に民に愛着を持ち、自分の民の記憶を忘れることはありませんでした。民を忘れない、ルーツを忘れない、これが司牧者の偉大さです。

 それは使徒パウロが、愛する弟子、若い司教テモテに、彼の先祖や、祖母や母を思い起こさせている通りです。モーセは神と深い友情で結ばれ、それゆえに神と顔と顔を合わせて語ることができました(出エジプト記33章11節参照)。同時に、モーセは人々との友情を保ち、彼らの罪や誘惑、彼らのエジプトにいた時代に対する突然の郷愁にも、憐みを感じることができたのです。

 モーセは神を拒絶することも、民を拒絶することもしません。彼は自分の民に忠実であると同時に、神の声にも言動一致の態度を示しました。いずれにせよ、モーセは権威を振りかざす独裁的な指導者ではありませんでした。「民数記」はモーセを「この地上の誰よりも謙遜な人であった」(民数記12章3節)と記しています。自分の恵まれたその立場にもかかわらず、モーセは、神への信頼を旅路の糧として生きる「心の貧しい人々」の群れに、自ら属すことを望み続けました。彼は民の人でした。

 このように、モーセに特徴的な祈りの形は、「執り成し」であると言うことができるでしょう(「カトリック教会のカテキズム」2574項)。モーセの神への信仰は、彼が民に対して育む父性と切り離すことのできないものです。聖書は、モーセを「両手を高く、神に向かって挙げた姿」で描きます。それは、まるでモーセ自身が天と地の架け橋となるかのようです。

 最も厳しい試練の時、民が、神と指導者モーセを否認し、金の子牛を造った日にも、モーセは民を突き放すことを望みませんでした。彼は神も民も拒絶することはありませんでした。モーセは神に言います。「この民は大きな罪を犯しました。自分のために金の神々を造ったのです。今もし彼らの罪をお赦しくださるのであれば…。しかし、もしそれがかなわないなら、どうぞあなたが書き記された書から、私を消し去ってください」(出エジプト記32章31-32節)。

 モーセは民を見捨てることはありませんでした。彼は神と民の架け橋、仲介者でした。彼は自分の立身出世のために民を差し出すことなく、自分の血肉、自分の歴史である民のため、そして自分を召し出された神のための仲介者、架け橋となりました。皆の架け橋となるべきすべての司牧者にとって、なんと素晴らしい模範でしょうか。

 それゆえ司牧者をpontifex(橋を築く者)と言うのです。司牧者は、自分が属する民と、自らの召命を通して結びつく神との架け橋です。モーセもそうでした。「主よ、彼らの罪をお赦しください。お赦しくださらないなら、あなたが書き記された書から、私を消し去ってください。私の民を踏み台に、出世したくないのです」。

 これは、神を真に信じる者たちが自身の霊的生活の中に育む祈りです。たとえ人々の欠点や、神から遠いその生活を知っていても、これらの祈る者たちは、人々を裁くことも、拒むこともしません。執り成しの態度は、まさにイエスに倣う聖人たちの態度、神と民との架け橋です。モーセは、この意味で、私たちの弁護者であり仲介者であるイエスの最も偉大な預言者でした(「カトリック教会のカテキズム」2577項参照)。

 今日もイエスは橋を築く方、私たちと御父との架け橋です。イエスは、私たちの救いのために払われた犠牲の傷跡を御父に見せながら、私たちのために執り成されます。モーセは、今日も私たちのために祈り執り成しされるイエスの予型なのです。

 モーセは、イエスと同じ情熱をもって祈り、世のために執り成しを願い、自分のすべての弱さにも関わらず常に神に属していることを思い出すように、私たちを励まします。すべての人が神に属しています。最もひどい罪びと、最も悪辣な人々、最も腐敗した指導者たちも神の子であり、イエスは皆のために執り成しをなさいます。

 そして、義人の祝福、聖人、義人、司祭、司教、教皇、信徒、あらゆる信者が、人々のためにいつの時代にも上げ続ける憐みの祈りのおかげで、世は生き、繁栄するのです。モーセの執り成しを思いましょう。私たちが誰かを裁こうとする時、そして、私たちが腹を立てている時、腹を立てても、人を非難するのはよくありません。非難する代わりに、その人のために執り成しを願いましょう。そうすることは、私たちにとって、大きな助けとなるでしょう。

(編集「カトリック・あい」南條俊二=聖書の引用の日本語訳は「聖書協会・共同訳」を使用)

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2020年6月18日