♰教皇水曜講話「私たちは決して一人で祈らない、イエスが共に祈ってくださる」

Pope Francis at General Audience Pope Francis at General Audience   (Vatican Media)

(2020.10.28 Vatican News staff writer)

   教皇フランシスコは28日の水曜恒例一般謁見での「祈り」をテーマとした講話で「祈りは御父との愛の対話の永遠の表現であり、人生のあらゆる瞬間において、最も困難な時、そして罪の重荷を感じている時でさえも、祈り続けるように」と信徒たちを促された。

 講話の前に、教皇は、新型コロナウイルスの感染がイタリアを含む欧州各国で再燃しており、一般謁見においても信徒たちのそばに寄ることができないことを悲しみながら、「私の心はあなた方のそばにいます。安全を第一にしてください」と語られた。

 「祈り」をテーマにした講話では、イエスがヨルダン川で洗礼者ヨハネから洗礼を受けられ、宣教活動を始められた場面を思い起こされた。

 教皇は、この箇所(マルコ福音書1章5節、マタイ福音書3章8節参照)で語られていることの根本的な重要性について二人の福音書記者は一致しており、人々がどのように祈りに集まって来たのかを語っている、とし、この集まりが明らかに悔い改めの性質を持ったもの、と教皇は指摘された。

 そして、「イエスの公生活で初めになさったことは、人々の唱和の祈り、悔い改めの祈りに参加すること、その祈りの中で、皆、一人ひとりが自分を罪人であると認識するのです」と述べられた。

 洗礼者ヨハネは、自分から洗礼を受けようとされたイエスに思いとどまられようと、「私こそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、私の所に来られたのですか」と言った(マタイ3章14節)が、イエスは、ヨハネに、これは、父の意思に従う行為、人間の姿をもって連帯する行為なのだ、として、洗礼を授けけるように求めた、と教皇は指摘。

 そうして、イエスは「神の民である罪人たちと祈られます。不従順な人々と違うこと、距離があることを示すために、ヨルダン川の向こう岸の方に行くことはせず、同じ清められた水に足を浸されたのです」とされ、「このように、イエスは”遠い神”ではありません。ご自分の使命を果たし始められた時、ご自身を悔い改めた人々の先頭に置かれ、「私たち全員が、イエスの後に従って、くぐる勇気を持たねばならない”突破口”を開かれたのです」と説かれた。

 また、教皇は、イエスが洗礼を受け、公生活を始められたその日、ヨルダン川のほとりに、すべての人間が「祈りへの暗黙の強い思いをもって」立っているのだ、と語られ、誰よりもそこにいるのは、罪人の群れー「神に愛されていないと思った人、神殿の敷居を跨ごうとしなかった人、自分にふさわしくないと考えて祈らなかった人です」とされた。

 だが、「イエスはすべての人のために、そうした罪人のためにさえも、この地上においでになり、まさに、その中に入ることから公生活を始められました」と述べ、さらに、「祈ることによって、「イエスは天の扉を開かれ、聖霊がそこから降りて来られる。私たちが祈る時、決して一人ではありません。イエスが私たちと共にお祈りになるのです」と強調された。

 また教皇は、「洗礼によって、私たちはキリストの兄弟姉妹になり、聖霊の賜物によって、私たちは、イエスご自身の祈りの中で、『御父との愛の対話の永遠の表明』を分かち合うことができるのです」とも語られた。

 さらに、イエスは、激動の生涯、激しい非難、そして耐え難いような辛く、悲しい経験を通して、「嫌悪や迫害に取り巻かれた時でさえも、イエスは決して住まいとしての避難所を持つことをせず、御父の中に永遠に住まわれるのです」とされた。

 最後に教皇は、「イエスは、私たちのためにこの贈り物を手に入れ、ご自身が祈られたように私たちにも祈るように招かれています」とし、「祈る時に、このようなことがあるかも知れません。面倒くさい、あるいは、空しい、と感じたり、人生はまったく無駄であるように思えたりするかもしれません。そのような時こそ、私たちは、イエスの祈りが私たち自身のものになるように、願わなければならないのです」と諭された。

 そして、このように締めくくられたー「そうすれば、天からの声を聴くでしょう。私たちの深みから沸き起こる声よりも大きく、優しい言葉で耳打ちしますー私たちは神の愛される子供たち、天には父の喜び、と」。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

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2020年10月28日