♰「沈みかけた時『主よ、助けてください』と叫ぶのを、恥ずかしく思うな」-教皇、第19主日正午の祈り

(2020.8.9 Vatican News)

   教皇フランシスコは9日、年間第19主日の正午の祈りの説教で、この日のミサで読まれたマタイ福音書14章22~22節「湖の上を歩くイエス」を考察され、 今日の福音は「私たちの人生でいつも、特に試練と恐怖の時に、信頼して神に自分自身を任せるように」との呼びかけだ、と説かれた。

 福音書のこの箇所では、嵐の最中に湖の上を歩かれたイエスが、「水の上を歩いて自分の所に来るように」とペトロに言われた場面が描かれている。ペトロは舟から降りて水の上を少し歩いたが、風を見て怖くなり、沈みかけたので、イエスに、「主よ、助けてください」と叫ぶ。すると、イエスはすぐに手を伸ばして、彼の手をつかみ、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったか」と言われた。

 このペトロの振る舞いについて、教皇は、「私たちには、疑いと恐れの強い感情があります。自分が沈みかけているように思われた時、ペトロのように『主よ、助けてください』と叫ぶのを恥ずかしいと思ってはなりません」とされ、この「主よ、助けてください」という祈りは、「神の心、イエスの心の扉をたたくものであり、何回でも繰り返すことができるのです」と語られた。

 さらに、ペトロの助けを求める叫びに、イエスがすぐに応え、助けの手を差し伸べられたことについて、「イエスは、私たちを決してお見捨てにならない『父の手』、いつも私たちにとって良いことだけをお望みになる『父の強くて忠実な手』であること」を示している、と説かれた。

 また教皇は、この日のミサの第一朗読で読まれた旧約聖書の列王記上19章11~13a節(…主が通り過ぎて行かれると、主の前で非常に激しい風が山を割き… 地震があった… 火があった。しかし、その中に主はおられなかった。火の後に、かすかにささやく声があった)について、「神は『激しい風』や『火』『地震』ではありません。強制はしないが、聞いてくれるように願う『軽やかなそよ風』に乗って、私たちの所に来られるのです」と強調された。

 そして、主が「私たちの信仰がどれほど弱く、私たちの旅がいかに困難であるか」を知っておられ、 「イエスは復活された方、私たちを安全な所に引き戻すために、死を遂げられた主です。私たちが求め始める以前から、私たちのそばにいてくださいます」とされ、 「暗闇の中で、私たちは恐らく、 主が遠くにおられると考え、『主よ、主よ!』と叫びます。そして、主は言われますー「私はここにいる」と。そうです。主は私と共にいてくださった!それが主なのです」と念を押された。

*激しい風にさらされる船は「教会」だ

 また教皇は、マタイの福音書の朗読箇所に戻り、「激しい風にさらされた弟子たちの舟は『教会』です。教会は、あらゆる時代に逆風に遭い、厳しい試練に直面します」とされ、特に20世紀には「長い、継続した迫害」があり、「今日でも、いくつかの場所で(迫害が起きている)」。

 そして、「そのような時に、教会は『神が自分をお捨てになった』と思いたくなる誘惑に陥りそうになるかも知れません。ですが、まさにその瞬間に、信仰の証し、愛の証し、希望の証しが最も輝くのです」と強調。そして、「復活したキリストの臨在は、教会に、殉教した証し人の恩寵を与え、そこから新しいキリスト教徒と全世界の和解と平和の果実が育ち始めるのです」と説かれた。

*広島・長崎、核兵器のない世界への取り組みを改めて訴え・レバノンでの悲劇と住民への助けを祈る

 また教皇は、この日の正午の祈りに続いて、75年前の1945年8月6日と9日に広島と長崎を襲った原子爆弾の悲劇を思い起こされ、昨年11月の訪日の際に、現地を訪れた時の「心揺さぶられる思いと、現地の方々への感謝を改めてかみしめながら、皆さまと共に祈り、核兵器のない世界への取り組みへの決意を新たにします」と述べられた。

 また、多数の死傷者が出ているベイルートでの大爆発の悲劇にも言及され、犠牲者、そしてレバノンの国民に深い哀悼の意を示すとともに、「レバノンには、さまざまな文化が共存しています… 確かに、この共存は現在、非常に脆弱ですが、神の助けと人々の参加によって、自由で強い共存に生まれ変わることを祈っています」とされ、さらにレバノンの司教たち、司祭たち、そして宗教者たちに対して、「人々に寄り添い、贅沢を慎み、福音的な貧しさを生きるように。あなた方の国民はとても多くの苦しみを味わっているのですから」と訴えられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

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2020年8月9日