♰「主と共に”ガリラヤ”から新たに出発しよう」教皇の復活徹夜祭ミサ

(2021.4.3 バチカン放送)

  カトリック教会の典礼は3日の日没とともに「復活の主日」に入り、教皇フランシスコは同日午後7時半(日本時間4日午前2時半)から、聖ペトロ大聖堂の司教座祭壇で「復活の聖なる徹夜祭」を祝われた。

 2021.04.03 Veglia Pasqualeこの式では、火の祝別や復活の大ろうそくを掲げた行列、「エクスルテット」(復活賛歌)の朗唱、救いの歴史における神の御業を思い起こすと共に、キリストの復活を告知する豊かな朗読などが行われた。復活徹夜祭の特徴の一部である洗礼式は、新型コロナ感染予防への配慮から、昨年に続き行われなかったが、参列者全員で洗礼の約束を新たにした。

  教皇は説教で「先を歩まれるイエスの招きに応え、私たちもガリラヤに向かい、主と共にガリラヤから新たに出発しましょう」と世界の信者たちを励まされ、復活の三つの告知について話された。

 教皇の説教は、以下のとおり。

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 婦人たちは主の遺体に香油を塗ろうと思っていました。ところが、墓は空でした。彼女たちは死者を弔い、泣くために行きました、ところが、命の告知を耳にしました。マルコ福音書は、彼女らは「震え上がり、正気を失っていた」(16章8節)と伝えます。

 「震え」、これは彼女たちの心を満たした「喜びと混ざり合う一種の恐れ」です。墓の大きな石は取り除かれ、中には白い衣を着た若者が座っていました。そして、驚きをもって、この言葉を聞いたのですー「驚くことはない。十字架につけられたナザレのイエスを捜しているのだろうが、あの方は復活なさって、ここにはおられない」 (16章6節)。

 そして、婦人たちに次のように命じます。「行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』」(16章7節)。私たちもこの招き、復活の招きを受けましょう。復活された主が先においでになるガリラヤに行きましょう。

 しかし、「ガリラヤに行く」とは何を意味するのでしょうか。「ガリラヤに行く」とは、まず何よりも「再び始める」ことを意味します。ガリラヤは弟子たちにとって、主との最初の出会いの地ー主が彼らを探し、ご自分に従うようにと招いた場所ーです。いわば、「最初の出会い」と「最初の愛」の地です。あの時から、弟子たちは網を捨てて、イエスに従い、その説教に耳を傾け、イエスが行う奇跡に立ち会ったのです。

 しかし、彼らはいつもイエスと共にいながら、イエスを完全に理解したわけではありませんでした。しばしばその言葉を誤解し、十字架を前にすると、イエスを一人置き去りにし、逃げ去ってしまいました。

 このような弟子たちの失敗にもかかわらず、復活された主は、以前のように彼らの前に現れ、先立ってガリラヤに行かれます。復活されたイエスは、弟子たちの前を歩まれるのです。イエスは弟子たちを呼ばれます。ご自分に従うようにと、飽くことなく、繰り返し呼びかけられます。イエスは言われます。「私たちが共に始めたところから、また再び始めよう。再出発しようではないか。すべての失敗を乗り越え、あなたがたを再び私の下に置きたいのだ」。ーこのガリラヤで、私たちは、「数々の失敗にもかかわらず、新たな道を開いてくださる主」の無限の愛を学び取るのです。

*第一の告知「神は、常にやり直すことを可能にしてくださる」

 私が皆さんに示したい復活の第一の告知、それは「やり直すことは、常に可能だ。どのような失敗があっても、神は私たちに、やり直すことを可能としてくださる」ということです。

 私たちの「心の残骸」からも、神は素晴らしい芸術作品を創造することがおできになります。私たち人類の「粉々になった遺物」からも、神は新しい歴史を準備されます。神はいつも、苦しみや絶望の、死の十字架において、私たちの前を行かれます。

 こうしてまた、よみがえる生命の栄光においても、移り行く歴史においても、希望の再生においても、神はいつもわたしたちの前を歩まれます。新型コロナウイルスによる大感染の危機にある今この時においても、「再び始めるように、決して希望を失わないよう」とに招かれる、主のみ言葉に耳を傾けましょう。

 「ガリラヤに行く」とは、また「新しい道」を行くことをも意味します。

 それは、墓とは反対の方向に向かうことです。婦人たちは墓にイエスを探しに行きましたーイエスと共に過ごした時のこと、そして、今は失なわれたことの思い出をたどり、悲しみに沈むためでした。これは、「素晴らしかったが、今はすでに終わってしまったこと」を単に記憶するための、信仰のイメージです。多くの人々は「思い出の信仰」を生きています。あたかもイエスは「過去の人物で、遠い昔の若かりし頃の友人、子ども時代、カテキズムに通っていた頃の出来事」であるかのようです。習慣と化した信仰、過去の産物、小さい頃の遠い思い出ー今の自分にはまったく関係ないものに、成り下がっています。

 「ガリラヤに行くこと」は、「信仰が生きたものであるために、常に歩み続けなければならないこと」を教えてくれます。毎日、新しく歩み出さねばなりません。最初の出会いの感動を新たにしなければなりません。そして、「何もかも知り尽くしている」という思い上がりなしに、謙遜のうちに、神の道の導きに委ねる必要があります。子どもの頃の思い出に神を閉じ込めず、いつも生きておられる方、私たちに驚きをもたらすお方を、再発見することが大切です。復活されたイエスは、絶えず私たちに驚嘆をもたらします。

*第二の告知「信仰は”思い出”ではなく、イエスは”過ぎた昔の人”ではない」

 復活の第二の告知、それは「信仰は以前のことの思い出ではなく、イエスは過ぎた昔の人ではない」ということです。イエスは今ここで生きておられます。あなたが生きる状況の中で、あなたが抱える困難の中で、あなたが心に育む夢の中で、毎日あなたと共に歩まれます。

 「ガリラヤに行く」、それは「辺地に行く」ということも意味します。ガリラヤは中央から離れた場所でした。そこには、エルサレムの正当な生き方からは、だいぶ外れた生き方をする人々が住んでいました。それにもかかわらず、イエスはご自身の使命を、このような土地から始められました。毎日の暮らしに苦労する人々や、疎外された人々、弱い人々、貧しい人々、落胆した人々、行き先を見失った人々に、神の御顔、神の現存を示すために福音を述べ伝えました。なぜなら、神の目には、誰も最後の者はなく、除外される者はないからです。

 復活されたイエスは、今日も私たちに「そのような場に行くように」と願っておられます。「日々の生活の場、日々歩く道、住む街角に出て行くように」と主は望まれます。まさしく主は私たちの先を行かれ、その場におられます。私たちと共に、時を、家を、仕事を、疲労を、希望を共有する人々の中に、主はおられます。希望に満ちた人々、あるいは絶望の淵にある人々、喜ぶ人々、苦しみ泣く人々、特に貧しい人々、疎外されているこのような兄弟たちの中に、復活されたキリストを見出すことを、ガリラヤの地で学びましょう。神の偉大さがいかに小ささの中で現れ、その美しさがいかに単純な人々や貧しい人々の中で輝くかを見て、私たちは驚かされることでしょう。

*第三の告知「復活されたイエスは限りなく私たちを愛し、どのような時も訪ねてくださる」

 第三の復活の告知は「復活されたイエスは限りなく私たちを愛し、どのような時にも、私たちを訪ねてくださる」ということです。

 主は世界の中心に現存されます。そして、私たちは、あらゆる障害を克服し、偏見を改め、神の日常の恵みを再発見するために、自分の周りにいる人々に近づくよう招かれています。私たちのガリラヤに、毎日の生活の中に、復活された主の現存を認めましょう。主と共に生活は変わるでしょう。なぜなら、すべての敗北、悪、暴力、苦しみ、死にかかわらず、復活された主は生きておられ、歴史を導かれるからです。

 姉妹、兄弟の皆さん、もしこの夜、困難や、失望、敗れた夢に苦しんでいるなら、大きな驚きをもって復活の告知に心を開いてください。「恐れるな。主は復活された、ガリラヤであなたを待っておられる」。あなたの期待は満たされ、涙はぬぐわれ、恐れは希望に打ち負かされるでしょう。なぜなら、主はあなたの先を歩み、あなたの前を進まれるからです。そして、常に主と共に、新しい人生が始まるのです。

(編集「カトリック・あい」=表記は当用漢字表記に、聖書の引用には「聖書協会・共同訳)に改めてあります)

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2021年4月4日