(2021.7.4 Vatican News staff writer)
教皇フランシスコは年間第14主日の7日正午の祈りに先立つ説教で、「習慣からくる偏見や狭量な見方に囚われない目と心を持ち続けるように。そして、神の思いがけないなさり方に驚くことを忘れずにいるように」と信徒たちを促された。
説教で教皇はまず、この日のミサで読まれたマルコ福音書の箇所に注目された。
イエスは故郷ナザレにお帰りになり、会堂で教え始められたが、地元の彼の知り合いたちは「彼は、質素な家族に一員で、大工の息子なのに。どうやって知恵を手にしたのか」と首を傾げ、不信と憤りを抱いた。そのような彼らに、イエスは「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親族、家族の間だけである」(6章4節)と語られた。
*知ることと認識すること
故郷の人々のイエスに対するこのような振る舞いは、彼らはイエスを「知っている」と思っていたが、(彼の本質を)「認識していなかった」ことを示している、と教皇は指摘され、「『知ること』と『認識すること』の違いは、私たち皆が理解すべきことであり、そうしないと、人物について『何でも知っている』と考える危険を冒すことになります。私たちの知識は表面的なものとなり、その人物の独自性を認識するために、さらに多くのことを学ぶ必要が出てくるのです」と強調。
さらに「最悪の場合、私たちは他者に”ラベル”を貼り始め、自己に閉じ籠るか、偏見を持つようになります。イエスと30年もの長い知り合いでありながら、本当のイエスの姿が分からず、イエスの真価を認めようとしなかったナザレの村人たちのように、です」と説かれた。
*心を閉じるか、開くか
そして、教皇は信徒たちに、「もしも私たちが習慣の安易さに身を任せるなら、それは、新しいもの、感嘆する可能性にに目を閉じてしまう”偏見の独裁”を引き起こす可能性があります… 私たちの日々の暮らしの中で、経験や自分の考えや世界の見方だけを頼りにする人たちに引きずられるのは、その表れです」と指摘。
こうしたことは、「私たちの信仰生活にも影響を与える可能性があります。自分はイエスについてすべてを知っている、すべてを理解している、と思い込むことです。神についての新たな発見、驚きができなくなれば、信仰は徐々に死滅して”おっくうな繰り返し”になってしまいます」と警告されるとともに、感嘆することの重要性を強調され、「それは主に本当に出会う、自然な反応なのです」と説かれた。