☩教皇赤道ギニア訪問3日目・アフリカ4か国訪問最終日:マラボ・スタジアムで最後のミサ「私たちの人生の物語は、福音の中に意味を見出す」

 

(2026.4.23  Vatican News  Isabella H. de Carvalho)Pope Leo XIV celebrates Mass in Malabo, Equatorial Guinea

 赤道ギニア訪問中の教皇レオ14世は、11日にわたるアフリカ4か国歴訪最終日となる23日午前、首都のマラボ・スタジアムで最後のミサを約3万人の信者たちと共に捧げられ、説教で「聖書が私たちの人生の意味を明らかにすること」の重要性を強調され、赤道ギニアの教会に対し「イエスの最初の弟子たちの使命を喜びをもって続けていくように」と励まされた。

教皇は説教を、ご自身の同国到着のわず

か数日前の4月17日に急逝したマラボ大司教区の総代理、フォルトゥナート・ンスエ・エソノ神父の死に対し、「心からの哀悼の意」を表すことから説教を始められ、「この悲しみの時を信仰の心をもって過ごされるよう皆さんにお願いします。憶測や軽率な結論に惑わされることなく、彼の死を取り巻く状況が完全に解明されることを信じています」と述べられた。

 続けて教皇は、「神は、聖書を通して、私たちに人生の意義を明らかにし、ご自身の愛を示してくださり、そしてその愛をすべての人に広めるよう私たちを励ましてくださいます」とされ、「主の御前において、私たちの問題は消え去るわけではありませんが、光が当てられます。あらゆる十字架がイエスにおいて贖いを見出すように、私たちの人生の物語もまた、福音においてその意味を見出すのです」と強調。

 「イエスにおいて、私たちには驚くべき展望が与えられています。神ご自身が私たちのためにご自身を捧げてくださるのです。神の愛が私の死よりも強いと、私は信じているでしょうか。神を信じることを決めることで、私たち一人ひとりは、避けられない絶望と、神が与えてくださる希望との間で選択をするのです」と説かれた。

 そして教皇は、「私たちの人生と正義への飢え渇きは、イエスの言葉-『私が世の命のために与えるパンは、私の肉である』によって満たされます」とされ、「『赤道ギニアの生ける教会』であるあなたがたは、イエスの最初の弟子たちの使命を喜びをもって引き継いでいくように」と励まされた。

 さらに「皆で福音を朗読するときは、情熱を持ってそれを宣べ伝えるように。そして、皆で聖体祭を祝うときは、救いをもたらす信仰を自らの生活を通して証しし、神の言葉がすべての人にとって良き酵母となるようにしましょう」と促された。 

*神の言葉は実を結び、私たちを自由にする

 また教皇は、聖書を解釈することは「真剣かつ神の摂理にかなった行為」とされ、「なぜなら、それは、私たちが共に歴史の書、すなわち神がその知恵をもって今も導き続けている私たち自身の生涯のページを読み解く準備となるからです」と強調。

 ミサで第一朗読として読まれた使徒言行録を取り上げ、助祭フィリポがエチオピアの女王の宦官に聖書を解き明かし、イエスを宣べ伝えていることについて、教皇は「その宦官は、聡明で教養はあるものの、完全な自由には恵まれておらず、彼が持つのは他者の利益となる労働だけ。彼の身体さえもこれを示しています。宦官である彼は命を授けることができないため、彼のすべての活力は、彼を支配し統治する権力の奉仕に捧げられていました。しかし、彼にとって隷属の地となってしまった故郷アフリカへ帰る際、福音の宣教が彼を解放します。彼が手にした神の言葉は、彼の人生において予期せぬ実を結ぶのです」と語られた。

 フィリポを通して、宦官は聖書の「傍観者」から、「今や自分自身の問題となった」その物語の「主人公」へと変容する。「こうして、このアフリカの男性は、神の言葉を理解しようとするすべての読者を歓迎する聖書の中へと入り込む。彼は、すべての男女、とりわけ抑圧され、疎外され、私たちの中で最も弱い立場にある人々を包み込む救いの歴史の中へと足を踏み入れるのです」とされた教皇は、この箇所の終わりに宦官がフィリポによって洗礼を受け、この秘跡を通じて「神の子、信仰における私たちの兄弟となる」ことで、この言葉が生き生きとした現実となることを指摘された。

「奴隷であり、子を持たない身でありながらも、彼は主イエスの御名によって、新しく自由な命へと生まれ変わるのです」。

 

 

 

 

*キリストは私たちにとってすべてである

 教皇は、ミサの参加者たちに、宦官と同様に私たちも洗礼によってキリスト者となり、それによって神の御言葉を読み解くのと同じ信仰を受け、それが「私たちの生活の中で福音を宣べ伝える」助けとなることを想起させ、「聖書を読むことは、常に個人的かつ教会的な行為であり、決して孤立して、あるいは単に機械的に行われるものではありません。フィリポが宦官に対して行ったように、信仰の旅路において私たちに寄り添う導き手となるものです」と強調された。

 続いて教皇は、宦官が預言者イザヤの箇所を読んでいたことに言及された。そこには、「その受難と死と復活によって、私たちを罪と死から贖ってくださるイエスについて語られている。イエスにおいて、神の言葉の一つひとつが成就し、神は、その言葉の本来の意図、完全な意味、そして究極の目的を明らかにしてくださるのです」と説かれた。

 続いてミサで読まれたヨハネ福音書の一節に言及された教皇は、「救い主イエスの御業を通して、主は常に成し遂げてこられたこと、すなわち命を与えることを成就される。主は世界を創造し、救い、永遠に愛しておられます」と強調。

 福音書の中で、キリストはまた、イスラエルの民が砂漠を40年間旅する間、神がマナを通して彼らを養われたことを挙げ、信者たちに神ご自身の「絶え間ない配慮」を思い起され、「このマナは、イエスが成就するために来られるというしるしであり、祝福であり、約束です。今やそれが『永遠の契約』である聖体へと取って代わられたのです」と述べられた。

「私たちはキリストを賛美し、祝福します。なぜなら、私たちが永遠に生きることができるように、キリストは私たちのために聖体、すなわち永遠の命のパンとなられることを選ばれたからです。キリストは私たちにとってすべてであり、キリストの中に、私たちは命と意味の充満を見出すのです」と説かれた。

 

 

*すべての人に福音を宣べ伝えよう

 

 そして、神が「常に私たちを先に愛してくださる」こと、そして神の言葉が「私たちにとっての福音である」というこの福音を踏まえ、教皇は「私たちが世界に宣べ伝えるべき、これ以上のものはありません。私たち一人ひとりは、兄弟愛の結束の秘跡であり、赦しの清めの水であり、希望の源である洗礼の瞬間から、この福音宣教に召されているのです」と強調。「私たちの証しを通して、救いの宣教は行動、奉仕、そして赦しの中で目に見えるものとなり、一言で言えば、それが教会となるのです!」と訴えられた。

 また教皇は、内面生活が自己の利益に囚われ、他者への余地を失うことのないよう警告した。教皇は、「そのような閉ざされた態度に直面してこそ、まさに主の愛が、とりわけ正義と連帯の奉仕において、私たちの努力を支えてくださるのです」と述べられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

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2026年4月23日