☩教皇アンゴラ訪問二日目:「イエスは”エマオへの道”でのように、アンゴラの教会の傍らを歩まれる」-キランバでのミサで

Pope Leo XIV presides over Mass in Kilamba, AngolaPope Leo XIV presides over Mass in Kilamba, Angola  (@Vatican Media)
(2026.4.19 Vatican News   Deborah Castellano Lubov)

 アンゴラ訪問2日目の19日朝、教皇レオ14世は、首都近郊のキランバでミサを捧げられた。

 そして説教で、「イエスが生きておられ、復活され、アンゴラのあなたがたの傍らを歩んでおられます… すべての信徒が、主とその御臨在を自分たちの真ん中に受け入れるなら、多くの苦難を経験してきたこの国は、祝福に満ちた平和な未来を授かることができるでしょう」と人々を励まされた。

 教皇は説教の始めに、「感謝の心で満ち溢れ、あなたがたの真ん中でミサ聖祭を捧げます」と述べ、「この賜物と彼らの喜びに満ちた歓迎に対して神に感謝します」と語られた。

 そして、「教会が教えることに忠実であり続け、司牧者たちを信頼し、御言葉と聖体において特別な形で御自身を現わされるイエスに視線を注ぎ続けなさい」と説かれた。

*美しくも傷ついた国、アンゴラは希望と平和、兄弟愛を渇望している

 復活節第3主日にあたって、教皇は、このミサで読まれたルカ福音書の箇所に人々の注意を向けられた。

 この箇所では、エマオへの道を行く二人の弟子の様子が記されている。二人は、心が傷つき、悲しみに暮れながら、自分たちが信頼を寄せ、従ってきたイエスの死を目の当たりにした後、エルサレムを後にし、故郷エマオへの帰路についた。当初は落胆していたが、キリストが自分たちの真ん中にいること、主イエスが自分たちのそばを歩んでおられることを悟ったとき、すべてが一変した。

 教皇は「この福音書の箇所の冒頭の場面に、アンゴラの歴史が映し出されています… この美しくも傷ついた国は、希望と平和、そして兄弟愛を渇望しているのです」とされ、「師に起きた出来事に落胆しながら歩く二人の弟子が交わした会話は、『長い内戦、それに伴う敵意と分裂、浪費された資源、そして貧困』という、アンゴラの歴史を刻んできた苦難を思い起こさせます」と語られた。

 だが、これほど苦難に彩られた歴史の中に長く浸っていると、「エマオの弟子たちのように、希望を失い、落胆によって身動きが取れなくなってしまう危険性があります… 人は疲れ果て、どうすれば再出発できるのか、あるいはそれがそもそも可能なのかさえ分からなくなってしまうのです」と指摘。

 その様な時でも、「主は、落胆した二人の弟子に対してなさったように、そばに近づき、旅路の伴侶となられることで、自分たちで物語を再構築し、痛みを超えて先を見据え、道を一人で歩いてはいないこと、そして愛の神がなおも宿る未来が自分たちを待っていることを発見できるよう助けてくださるのです」と励まされた。

*主は私たちに、再び歩み出すための恵みを与えてくださる

 

 そして教皇は、「親愛なる友の皆さん、主の福音は、今日の私たちにとっても、まさにこれなのです…主は生きておられ、復活され、私たちが苦しみと苦悩の道を歩むとき、私たちのそばを歩んでおられます。主は私たちの目を開いて御業を悟らせ、再び歩み出し、未来を再建するための恵みを与えてくださるのです」 と強調。

 「ここに、私たち、そしてアンゴラの親愛なる兄弟姉妹の皆さんが、再び歩み始めるための道が示されています。一方には、主が私たちに寄り添い、憐れみを与えてくださるという確信があり、他方には、主が私たちに求めておられる献身があります」と説かれた。

 教皇は、さらに、「何よりもまず、主との関係の中で、主の同伴を体験すること… 私たちが祈りの中で、また、二人の弟子たちの時のように、私たちの心を燃え上がらせる御言葉を聞く中で、そして何よりも聖体祭儀の中で、神と出会うことです」と指摘。「それゆえ、常に、確かにあなた方の文化の根源の一部ではあるが、霊的な旅路において何の助けにもならない魔術的・迷信的な要素を、混同し、入り混じらせる危険性もあります。そうした伝統的な宗教的形態に注意を払わなねばなりません」と注意された。

 そして、「教会の教えに忠実であり続け、司牧者たちを信頼し、御言葉と聖体において特別な形で御自身を現わされるイエスに視線を注ぎ続けてください。その両者において、私たちは復活された主が私たちのそばを歩んでおられることを体験し、主と結ばれることによって、私たちもまた、私たちを包囲する死を克服し、復活した者として生きることができるのです」と説かれた。

*アンゴラにはイエスのように自らを捧げる司教、司祭、宣教師、修道者、そして信徒が必要

 教皇は改めて、「私たちは一人ではありません… この自覚こそが、傷を癒やし、希望を再燃させる原動力とならなければならない… アンゴラの歴史、今もなお耐え忍んでいる困難な状況、社会的・経済的課題、そして様々な形の貧困。これらすべてが、民と共に歩み、子供たちの叫びに耳を傾けることのできる教会-御言葉の光と聖体の糧をもって、失われた希望を蘇らせることができる教会の存在を求めているのです」と強調された。

 また教皇は、「エマオの二人の弟子にパンを裂いて与えられたイエスのように、自らを捧げる人々を教会は必要としています… アンゴラには、自らの命を砕き、互いに捧げたいという願いを心に抱く司教、司祭、宣教師、修道者、そして信徒が必要なのです」と願われた。

*希望に満ちた未来を築くことは可能だ

 続けて教皇は、復活されたキリストの恵みによって、「私たちもまた、現実を変容させるこの『砕かれたパン』となることができる」と指摘。

 「聖体が私たちに、私たちが一つの主において結ばれた一つの体であり一つの霊であることを思い出させてくれるのと同様に、私たちもまた、古い分裂が完全に克服され、憎しみと暴力が消え去り、腐敗という傷が正義と分かち合いの新しい文化によって癒される国を築くことができるし、そうしたいと願っているのです」と強調。 「この方法によってのみ、希望に満ちた未来が、特に、希望を失ってしまった多くの若者たちにとって可能になるのです」と説かれた。

 説教の結びに教皇は、アンゴラの信徒たちに対し、「希望を持って未来を見つめ、未来の希望を築き上げるように。そうすることを恐れてはなりません! あなたと共に道を歩み、あなたのために自らをパンとして裂かれる復活のイエスは、あなたがたに、ご自身の復活の証人となり、新しい人類と新しい社会の主役となるよう励ましておられます」と激励。

 また、「この旅路において、アンゴラの信徒の皆さんが、私の親しみと祈りに頼ることができるよう、聖母マリアに委ねます。私も皆さんに頼ることができると確信しています」と述べられた。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

このエントリーをはてなブックマークに追加
2026年4月19日