
教皇フランシスコが1日、バチカンのパウロ6世ホールで、2回目の「聖年の土曜日の謁見」を行われた。
これは、2025年聖年中にローマを訪れる巡礼者たちのために、毎週水曜日の一般謁見に加え、隔週を目安に土曜日に行われるもので、教皇が聖年のテーマである「希望の巡礼者」に沿って、「希望」を様々な角度から考察する講話をされる。
今回は、「『希望する』とは、向き直ること。マグダラのマリア」について話された。要旨次の通り。
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聖年は人々にとって、そして世界にとって、新たな始まりです。聖年は、神の夢においてすべてを捉え直すべき時。「回心」という言葉は方向の転換を意味しますが、すべてを別の視点から眺めることで、私たちの歩みも新しい目標に向かうことができる。そうして、決して欺かない希望が湧き上がるのです。
聖書は、このことについて様々な形で語っています。私たちにとっても、信仰の体験は、人生において自分を変えることを知った人たちとの出会いによって刺激されてきました。彼らは言わば、「神の夢の中に入った人たち」でした。
そうした意味で、福音書におけるマグダラのマリアの姿は、誰よりも際立っています。イエスは、慈しみをもって彼女を癒し(ルカ福音書8章2節参照)、それによって彼女は変わりました。慈しみは、心を変容させます。マグダラのマリアは慈しみによって神の夢の中に導かれ、彼女の歩みに新たな目標がもたらされました。
ヨハネ福音書が語るマグダラのマリアと復活されたイエスとの出会いは、私たちに示唆を与えます。何度もマリアが「振り向いて」います。マリアは泣きながら墓の中を見ていましたが、振り返ります。復活されたイエスは、死の側でなく、命の側におられました。マリアは、振り返った先にいた人を、普段見かける人の一人だと思ったかもしれません。そして、イエスがマリアの名を呼ばれた時、マリアが再び振り向いたことを、福音書は記しています。
こうしてマグダラのマリアの希望は膨らみます。今はもう、墓を最初のようには見ていない。彼女が涙を乾かすことができるのは、自分の名前が、師しか呼ぶことのできない形で呼ばれるのを聞いたからです。「古い世界」は、まだそこにあるように見えても、もうそれは存在しません。
私たちの心の中で聖霊が働く時、主が名前で呼んでくださるのを聞きます。私たちは師の声を聞き分けることができるでしょうか。
「使徒の中の使徒」と呼ばれたマグダラのマリアから希望を学びましょう。新しい世界に入るには、何度も回心する必要があります。私たちの歩みは、絶えず展望を変えるようにと、招かれています。復活された主は、私たちを一歩一歩、ご自身の世界へ導いてくださいます…私たちがすでにすべてを知っているかのように振る舞わない限りは。
今日ここで自分に問いかけましょう。「私は物事の見方を変えることができるだろうか。回心の望みを持っているだろうか」と。
自信過剰で高すぎる誇りが、復活されたイエスを認めることを妨げます。今日でも、イエスの姿は、私たちが気にもかけない普通の人の姿です。私たちは、泣いたり絶望している時でさえも、イエスを置き去りにしてしまうのです。
過去の闇や墓の虚しさを見つめず、命に向き直ることを、マグダラのマリアから学びましょう。師はそこで待っておられます。私たちの名は、そこで呼ばれるのです。
現実の生活に、私たちの居場所があります。あなたのために、私のために、誰のためにも、居場所があります。誰もそれを取り上げることはできません。それは以前から、私たちのために考えられた場所だからです。一人ひとりが、こう言うことができるでしょう―「私には居場所がある。『私』という存在は、一つの『使命」なのだ」と。
自分の居場所とは何なのか、どのような使命を、主は私に与えておられるのか、を考えてみましょう。こうした考えが人生で勇気ある態度をとるための助けとなるように。(編集「カトリック・あい」)