☩「聖年は、恵みに満ちた出会いの機会」―教皇、2025年聖年を前にイタリア日刊紙に寄稿

(2024.12.19 カトリック・あい)

 イタリアの日刊紙『Il Messaggero』が18日付けの電子版で、教皇フランシスコによる聖年についての考察を掲載した。

 その全文の日本語試訳は次の通り。

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 イスラエルの民の歴史において、ヨベルと呼ばれる雄羊の角笛の音は、「jubilee(聖年)」の語源であり、モーセの律法の規定(旧約聖書・レビ記25章「安息年とヨベルの年」参照)に従って、特別な年の始まりを告げるものとして、すべての村に響き渡りました。

 聖年は贖罪と再生の時であり、象徴的な性格を強く持つある選択によって特徴づけられています。 それは、「大地は神のものであり、守るべき賜物として神から私たちに与えられているのだから、誰もそれを所有し、搾取することはできない」ということを私たちに思い起こさせるための、大地の耕作からの休息であり、不平等に対する社会正義を周期的に、そして50年ごとに再確立することを目的とした負債の免除であり、奴隷の解放でした。

 ナザレのシナゴーグでの説教の冒頭で、イエスはこのユダヤ教の十二年祭を取り上げ、新しい究極的な意味をお与えになりました。イエスは「捕らわれている人に開放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、打ちひしがれている人を自由にする」(ルカ福音書4章18-19節参照)ために来られたのです。

 このような救世主の使命において、聖年は、人間生活におけるあらゆる抑圧を包含するように拡大し、その結果、罪、諦念、絶望の牢獄にいる人々を解放し、神と出会い、隣人を見ることを許さないあらゆる内なる盲目を癒し、主との出会いの喜びを新たに目覚めさせ、その結果、希望のしるしの中で人生の旅を再開できるようにする恵みの機会となるのです。

 この精神に基づき、1300年の教皇ボニファティウス8世の勅書以来、何百万人もの巡礼者がローマを訪れ、彼らの日々の生活が、たとえ苦難や疲労の中にあっても、再び福音の希望によって把握され、支えられるように、外に向かって巡礼することによって、内なる刷新の旅への望みを表明してきました。彼らは皆、幸福と満ち足りた生活への抑えがたい渇きを心に抱き、予測不可能な未来に直面しながらも、不信、懐疑、死に屈しないという希望を育んでいるからです。

 そして、私たちの希望であるキリストは、私たちの内に宿るこの渇望の炎に出会うために来られ、存在を変容させ、新たにするキリストとの出会いの喜びを再発見するよう、私たちを招いてくださいます。それゆえ、「キリスト者の人生は、目的地である主キリストとの出会いを垣間見せてくれるかけがえのない伴侶、すなわち希望を養い強める絶好の機会をも必要とする旅路」(教皇フランシスコの2025年の聖年公布の大勅書『希望は欺かない』5項)だということです。

 聖年はそうした重要な瞬間です。クリスマスの夜に開かれる聖なる扉は、キリストとの出会いによって私たちに与えられる新しい命に入るための通路、刷新の過越への招きです。そして、最初の聖年であった1300年と同様に、ローマは再び世界中から巡礼者たちを迎えることになります。

 キリスト教の初期の時代には、北からの巡礼者はモンテ・マリオに登り、永遠の都を初めて目にしました。南から来た巡礼者は小舟でテベレ川を航行してやって来ました。 誰もが聖なる扉にたどり着き、その敷居を踏み越えることを強く望んでいました。 それ以来、聖年に巡礼者の足取りがローマの美しさと出会うことが恒例となっています。

 同じように今も、聖年の行事のたびに、巡礼者たちはローマの素晴らしさと出会います。聖年の機会に、道路の整備、公共交通機関の機能向上、記念碑の修復、そして都市の近代化のための特別な対策が動員されています。

 しかし、都市としての物理的な整備に関心を奪われて、聖年がローマに特別な使命を与えていることを忘れてはなりません。 それは、ローマがすべての人を歓迎し、もてなす場であり、多様性と対話の実験場であり、世界のさまざまな色をモザイクのようにまとめる多文化の作業場とすることです。そうすることで、ローマは栄光の過去に根ざした永遠の息吹を持ち、差別と不信の壁のない、障壁のない未来を築くことを約束する都市となることができるのです。ローマは、芸術の素晴らしさだけでなく、歓迎と友愛の予言においても際立っています。

 「殉教者と聖人たちと共に不滅のローマ……力と恐怖は勝つことができない、真理と愛が支配する」(『教皇庁賛歌』)のです。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

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2024年12月19日