
教皇フランシスコは2日、「キリストの聖体の主日」の正午の祈りに先立つ説教で、この日のミサで読まれた福音、マルコ福音書中の主の晩餐の場面(14章12-16、22-26節)を取り上げられた。
要旨は次のとおり。
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イタリアや他の国々では今日、「キリストの聖体」の祭日を祝います。今日のミサで読まれた福音は、イエスの最後の晩餐について語っています。
ここでイエスは自らを差し出す行為をなされました。弟子たちに与えられた裂かれたパンと、渡された杯は、イエスご自身です。イエスはご自身を全人類に与え、世の命のためにご自分を捧げられました。
パンを裂くイエスの行為において、マルコ福音書は「弟子たちに与えて」(14章22節)という言葉で、ある重要な側面を強調しています―聖体とは、何よりも「贈り物」だ、ということです。イエスはパンを取られましたが、それはご自分でお食べになるためではなく、裂いて弟子たちに与えるためでした。そのようにして、イエスはご自分のアイデンティティーと使命を啓示されたのです。
イエスは命をご自分のために取っておかれず、私たちに与えられました。ご自分が神であることを譲ることのできない宝のように考えず、私たちの人性を分かち合い、私たちを永遠の命に入らせるために、ご自身の栄光を脱ぎ捨てました(フィリピの信徒への手紙2章1-11節)。ご自身の命のすべてを贈り物とされたのです。
このようにして、私たちは、「ミサを祝い、聖体に養われることが、生活から切り離された行為でも、単なる個人的なぐさめの時でもないこと」を理解するでしょう。イエスは「パンを取り、裂き、弟子たちに与えられた」。そして、イエスとの一致は、私たちに、「他者のために裂かれたパンとなり、自分の存在、自分が持っているものを分かち合うこと」を可能にします。聖レオ1世教皇はこのように言っておられます―「キリストの御体と御血に与ることは、私たちを、そのいただくものと同じものにしようとする」と。
私たちが「なるように」と召されているもの、それは私たちがいただく聖体と似たものとなること、すなわち「聖体的」な存在となることです。所有や消費の論理のもとに自分のためだけに生きる者ではなく( ローマの信徒への手紙14章7節)、自分の人生を他者への贈り物とすることができる者になることです。
このように、私たちは聖体のおかげで、新しい世界の構築者となります。エゴイズムを乗り越える時、愛に自らを開く時、兄弟愛の絆を育てる時、兄弟たちの苦しみに寄り添う時、助けを必要とする人たちとパンや持っているものを分け合う時、自分たちの才能を皆のために役立てようとする時、私たちは、イエスのように自分の命のパンを裂くことになるのです。
ここで自分に問いかけましょう―「私は、自らの人生を自分のためだけにとっておくのか、それともイエスのように与えるのか」「私は、他者のために自分を惜しまず与えているだろうか、それとも狭い自分の中に閉じこもっているだろうか」「私は、日々の生活で、他者と分かち合っているだろうか、それとも自分の利益を追求しているだろうか」。
天から降りてきたパン、イエスを受け入れ、イエスと共にご自身を完全に捧げられたおとめマリアよ、私たちが聖体=イエスと一致し、自らを愛の贈り物とすることができるようお助けください。
(編集「カトリック・あい」)