教皇フランシスコ 2022年2月27日のお告げの祈り (Vatican Media)
(2022.2.27 バチカン放送)
教皇フランシスコは27日、年間第8主日の正午の祈りで、この日の福音書の朗読箇所(ルカ6章9-45節)を取り上げ、説教をなさった。
教皇の説教の要旨は次のとおり。
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今日の福音で、イエスは私たちの眼差しと話し方について考えるよう勧めておられます。
まず、私たちの「眼差し」について考えましょう。主は、自分の目にある梁(はり)を見ないで、兄弟に向かって「あなたの目にあるおが屑を取らせてください」(ルカ福音書6章42節参照)と言う危険に、私たちを気づかせます。
つまり、他者の欠点は、たとえおが屑のような小さなことでも、とても気になるが、自分の欠点は見過ごし、問題にしない、ということです。
実際、イエスの言うように、私たちはいつでも何かを他者のせいにして、自分を正当化しようとします。社会、教会、世界でうまくいかないことがあると、それを嘆くだけで、具体的に取り組むこともなければ、自分を変えるための努力もしません。
イエスは、私たちの目が見えない状態にある、と指摘され、「盲人に盲人の手引きができようか」と問いかけておられます(6章39節参照)。
イエスは、まず自分の惨めさを認めるために、私たちの内面を見つめるように、と勧めておられます。自分の欠点が見えないために、他人の欠点を大げさにしてしまう。自分の過ちや欠点を認めるとき、慈しみの扉が、私たちのために開くのです。
神はいつでも、人とその人の過ちとを区別されます。神は人を信頼され、いつも赦す準備ができておられます。神は、私たちにも、人の中に悪を探さず、善を見出すように、と招いておられます。
眼差しに続いて、イエスは、私たちの「話し方」についても考えるよう促されます。イエスは「心から溢れ出ることを、口は語る」(6章45節参照)と言われます。私たちが使う言葉は、自分がどのような人間であるのかを、物語りますが、時として、私たちは自分が話す言葉に注意を払いません。
私たちは言葉を通して、偏見を育てたり、隔ての壁を築いたり、さらには相手を攻撃し、破壊してしまうことさえあります。特にデジタル化した現代の世界では、言葉は早く伝わる一方で、怒りや攻撃性、偽の情報も早く伝わるようになりました。かつての国連事務総長、ダグ・ハマーショルド氏は「言葉の悪用は、人間を軽視することと同じだ」と語りました。
私たちが日頃使っている言葉について問い直してみましょう。その言葉が、配慮や尊重、理解や寄り添いを表すものか、それとも、自分をひけらかすためのものか。柔和さをもって話しているか。それとも批判や嘆きや攻撃性で、世の中に毒をまいているのか。
神がその謙虚さを顧みられた乙女マリアが、私たちの眼差しと話し方が清められるよう、助けてくださいますように。
(編集「カトリック・あい」=聖書の引用の日本語訳は「聖書協会・共同訳」を使用)