教皇フランシスコは1日の水曜恒例の一般謁見で、諸聖人の祝日に当たって、私たちが聖性に呼ばれていることを思い起こし、私たちがいただく神の賜物、常に私たちに寄り添う聖人たちと、私たちが共にする旅がいかなるものかを説かれた。
また、講話の終わりに、教皇は「明日2日の朝、私は第二次世界大戦中の英連邦戦没者の墓地でミサを捧げます。 そして今日の戦争で苦しんでいる人々のために祈り続けましょう。 苦しんでいるウクライナ、パレスチナ、イスラエル、そして今も戦争が続いている他の多くの地域を忘れないようにしましょう」と強調された。
(以下は、「バチカン放送」)
今日、諸聖人の祭日を祝うにあたり、聖性について、特に真の聖性が持つ2つの性質、「聖性とは賜物である」ということ、また「聖性とは歩みである」ということについて考えてみましょう。
まず「聖性とは賜物である」。聖性は私たちが洗礼と共に受け取った、神の賜物です。それを育てるならば、私たちの人生を完全に変えることができます。聖人たちは到達不可能な、遠い彼方の英雄ではありません。彼らは私たちの友人であり、彼らの出発点もまた、私たちが受けたものと同じ洗礼なのです。
よく振り返れば、私たちも必ず日常生活の中で聖人たちに出会っているはずです。それは、正しい人、キリスト教生活を真面目に単純さをもって生きている人、身近に暮らしている聖人たちです。
聖性は、幸いな人生のためにすべての人に与えられた贈り物です。私たちが贈り物を受け取った時の、最初の反応は何でしょうか。幸福な気持ちを感じるでしょう。誰かが私たちを大切に思ってくれるからです。聖性の贈り物は私たちを幸せにします。神が私たちを慈しんでくださるからです。
だが、すべての贈り物は、感謝と責任をもって受け取らねばなりません。私たちはそれを無駄にしないように招かれています。洗礼を受けたすべての人は、その人生を通して、受け取った聖性を保ち、それを完成させるようにと召されています。それゆえに、「聖性とは歩みである」とも言えます。それは、共に助け合いながら、登山者のようにロープでつながり、一致して行く歩み。その歩みの最高の仲間とは、聖人たちです。
聖人たちは、私たちの兄、姉として、いつも頼りにできる存在です。聖人たちは私たちを支え、私たちが道を誤る時、沈黙の存在をもってそれを正してくれます。聖人たちは信頼できる誠実な友人として、私たちのためを思ってくれます。私たちは、聖人の生涯に模範を見出し、彼らの祈りから助けと友情を受け取り、彼らと兄弟的な愛の絆を強めるのです。
聖性とは歩みであり、賜物です。ここで自問しましょう-自分を聖性へと招き、それに到達するのを助ける聖霊を受けたことを思い出せるでしょうか。聖性の恵みを聖霊に感謝しているでしょうか。聖人たちを身近に感じ、彼らに向かって話しかけているでしょうか。聖人たちの生涯を知っているでしょうか。
聖人たちの生涯を知り、それを行動の模範とすることは為になることです。祈りの中で、聖人たちに向かって話すことは、とても有益です。
諸聖人の女王、マリアよ、私たちに受けた恵みの喜びを感じさせ、永遠への熱望をかき立ててください。
(編集「カトリック・あい」)
Tomorrow morning, I will celebrate Mass in the Cemetery for the Fallen of the Commonwealth during the Second World War.
And let us continue to pray for the populations who suffer due to today’s wars. Let us not forget tormented Ukraine, let us not forget Palestine, let us not forget Israel and let us not forget the many other regions where war still rages.