☩「私たちはキリストへの喜びに満ちた信仰を証しするよう求められている」-新教皇レオ14世、枢機卿たちとの初ミサで

(2025.5.9 Vatican News   Deborah Castellano Lubov)

     第267代教皇に選出された翌朝、教皇レオ14世はシスティーナ礼拝堂で枢機卿たちと共に教皇として初のミサを捧げられた。説教の中で新教皇は、枢機卿たちに、「私たちは、キリストへの喜びに満ちた信仰を証しするよう求められています 」とされ、キリストとの個人的な関係を常に深めるよう求めるとともに、「信仰がなければ、人生に意味はありません」と強調された。

 説教で教皇レオ14世は、まず英語でいくつかの言葉を述べ、その中で教皇選挙に参加した枢機卿たちの信頼に感謝した。そして、「答唱詩編の言葉を繰り返したいと思います― 主は驚くべきことをなさった… 私は主に向かって新しい歌を歌おう」とされ、「兄弟である枢機卿たち、今朝、私たちがミサを捧げるにあたり、主が成し遂げてくださった奇跡、主がペトロの聖職を通して私たち全員に注ぎ続けてくださっている祝福について考えていただきたい」と呼びかけられた。

First Mass of Pope Leo XIV with Cardinals in Rome

 そして、「教会として、イエスの友人の共同体として、信者として、福音を告げ知らせるために、私たちと共に歩むために、皆さん一人一人が頼りになることを知っています」と語られた。

*キリストは人間の聖性を示してくださった

 新教皇は説教をイタリア語で行われ、初代教皇である聖ペトロを中心に、聖マタイによる福音書にある彼の言葉-「あなたは生ける神の子キリストです 」-を思い起こしながら、主への絶え間ない信仰によって可能となった「使徒的継承を通して教会が二千年の間守り、深め、伝えてきた 遺産」を指摘。

 そして、ペトロとキリストとの関係を振り返りながら、「救い主であるイエスだけが、御父の御顔を現しておられること」を思い起こされ、「イエスのうちに、神は、ご自分を男女の身近な存在とするために、子どもの信頼に満ちた眼差しで、若者の生き生きとした心で、そして人間の成熟した顔立ちで、私たちにご自分を現されました… このようにして、イエスは、私たちのあらゆる限界と能力を超越する永遠の運命の約束とともに、私たち皆が倣うことのできる人間の聖性の模範を示してくださったのです 」と語られた。

 

*賜物と道

 

 さらに、ペトロがキリストとの応答の中で、「それが 『神の賜物』」であると同時に、『その賜物によって自分が変えられるためにたどるべき道 』であることを理解していました… それらは、人類の善のために宣べ伝えられるよう教会に託された、救いの不可分の側面です 」と言明。「福音がすべての被造物に宣べ伝えられるために、私たちの限界を超え、私たち自身の功績もないのに、ここに連れて来られ、ここから送り出されるのです」と述べられた。

 

 

*教会のために忠実であるようにと召された

 また新教皇は、8日の午後、第267代教皇に選出されたことで、神がペトロの後継者として自分を召されたことを思い起こされ、「神の助けによって、教会の神秘体全体のために、その忠実な管理者となるように、この宝を私に託されたのです」と述べたうえで、「ペトロが信仰告白をするのは、『人は人の子を誰だと言うのか』という具体的な質問に答えるためでした。この質問は取るに足らないものではなく、私たちの宣教の本質的な側面、すなわち、私たちが生きている世界、その限界と可能性、その疑問と確信 に関わるものなのです」と強調。

*キリストに対して人々が示す二つの異なる態度、だからこそ宣教活動が必要

 

 さらに、「人は、人の子(イエス)を誰だと言うのでしょうか?」と問いかけ、「私たちが考えている場面を振り返れば、2つの異なる態度を特徴づけるものが見つかります」と指摘。まず、「イエスの存在が煩わしい 」となれば、「イエスの厳格な道徳的要求」のために、イエスを拒絶し、排除することを躊躇しない 反応がある」と語った。そして、イエスの問いかけに対するもう一つの可能な反応は、イエスを 「勇気のあるまっすぐな人 」と見る普通の人々の反応であり、「彼らにとっては、イエスはただの人であり、それゆえ、危険な時、受難の時、彼らもイエスを見捨て、失望して去っていくのです」とされた。

 そして、「この2つの態度は、今日にも通じるもの」とされ、「たとえ本質的には同じであっても、異なる言葉で表現されているとしても、現代に生きる多くの男女の口から出てくる観念を体現しているのです」、さらに「今日でも、キリスト教信仰が『不条理で、弱者や無知な者のためのもの』とされる状況が数多くあります。 テクノロジー、お金、成功、権力、快楽などが好まれるような状況です」と指摘。

 「これらの状況では、福音を宣べ伝え、その真理を証しすることは容易ではなく、信者は嘲笑され、反対され、軽蔑されるか、せいぜい大目に見られ、同情されるにとどまるでしょう。しかし、それゆえにこそ、そのような場所は、私たちの宣教活動が切実に必要とされている場所なのです」と語られた。

*信仰の欠如は、実質的な無神論の状態で生きることに繋がる

 続けて、現在社会の信仰の欠如は、「人生の意味の喪失、慈しみの軽視、人間の尊厳に対するひどい侵害、家庭の危機、その他私たちの社会を苦しめている多くの傷を、しばしば悲劇的に伴っています…そして、イエスは一人の人間として評価されてはいるが、一種のカリスマ的指導者やスーパーマンに成り下がっている。洗礼を受けていない人たち間だけでなく、多くの洗礼を受けたキリスト者の間でも このようなことが起こっています 。そのような人々は、実質的な無神論の状態で生きることになるのです 」と警告された。

 そして、「これが私たちに託された世界であり、教皇フランシスコが何度も説かれたように、私たちは救世主キリストへの喜びの信仰を証しするよう求められている世界なのです… それゆえ、私たちも、ペトロと共に、『あなたはキリスト、生ける神の子です』と繰り返さねばなりません」と訴えられた。

*日々の回心の旅に身を捧げる

 そのために私たちは、まず第一に、「主との個人的な関係において、『日々の回心の旅』に自らを捧げること。そして教会としても、同じことをする必要があります。主への忠誠を共に体験し、すべての人に福音を伝えるのです 」と強調された。

 そして、「ローマの司教としての使命を始めるにあたり、ペトロの後継者である私自身に対して、まずこのように言明します」とされ、「それは、アンティオキアの聖イグナチオのよく知られた言葉-『普遍的な教会を、慈愛のうちに司る』です。聖イグナチオは鎖につながれたまま、生け贄を捧げる場所であるこの町に導かれ、そこでキリスト教徒たちにこう書き送っています―『 その時、私は真にイエス・キリストの弟子となる』とも」と語られた。

 さらに、「聖イグナチオは、闘技場で野獣に食い荒らされることについて語りました。具体的には、『キリストが残るために身を引くこと、キリストが知られ、栄光を受けるために自分を小さくすること、すべての人がキリストを知り、キリストを愛する機会を持つために自分を最大限に使うこと』だと 」と付け加えられた。

 そして説教の最後を次のような祈りで、締めくくられた—「教会の母であるマリアの愛に満ちた執り成しによって、今日も、そしてこれからも、神がこの恵みを与えてくださいますように」。

(翻訳・編集「カトリック・あい」南條俊二)

 

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2025年5月10日